わたしの薄皮を
ここ最近考えていること。
それは「わたしの薄皮」について。
「薄皮」
それはツイッターのタイムラインに流れてきた、東畑開人さん(心理学者)のネットのエッセイの中に書かれていた。
そう、薄皮一枚って、本当に大事なのだ。
私たちの生きている世界は、自分を偽らないこと、「ありのままの私」であること、自然体であることが良きことで、仮面をかぶらず、素顔のままでいることが推奨されがちだ。
自己啓発本なんか読むと、自分の中に潜んでいる「本当の私」を発見して、本当にやりたいことに正直に生きられると、元気が出てくると盛んに語られている。
だけど、実際のところ、薄皮一枚をきちんと羽織っていることができなくなると、私たちはとても傷つきやすくなってしまう。
ありふれた心理療法家としては、どうしてもそう思ってしまう。
心理療法の仕事をしていると、その薄皮一枚がどうしても手に入らなくて、苦しんでいる人に出会うからだ。
引用:生き延びるための美学 第2回 詩の女神と薄皮一枚 東畑開人
読んでて、そうそうと思った。
そうそう。
わたし、この一年で、薄皮まで剥いだんだよなって。
ベリベリと。
この一年。
わたしは、わたしの生の生の生の部分を知りたくて。
わたしの最低なところとか、そういうのを知りたくて。
ひたすら殻を砕き、言語化したりアートにしたり。
もともと着ていて、はぎ取った布を洗濯してアイロンをかけ畳み直して。
体に残った細かい薄皮や、掃除しないでこびりついて取れなくなった垢をちゃんと道具と時間を使って、きれいにするみたいなことをした。
何もついてない生身で。一度そこに立ち返りたいと思った。
生のわたしに立ち返って、これからの在り方を考えるようにしたくて。
「こんがらがった毛糸をほぐす」とか、「回路のつなぎ方が複雑になってしまった電気の路を単純なつなぎになるように繋ぎかえる」みたいな。
今後のことを考えたときに、そのままにしていたらいつかそのことが致命傷になってしまう気がしていたので。それを避けるために。
めんどくさいことをした。
書いた文章も見せ方よりも、出すことで、いかに生に触れるかを重要視したし。
詩も詩として面白いかよりも、出して感情が揺れてフィットして気持ちいいかだった。
文章に出せても言葉に出せないできたことは、カウンセリングで言語化したりした。どこまでが揺れてどこまでが苦しいか、推し量った。
そうやって、整理して。
そうして今のほぼ生身の私が在る。
このわたしは、以前より傷つきやすく過敏さがある、そう感じてる。
それは少しだけ怖い。
わたしの新しく得た「前よりも過敏になった」は、わたしがわたしと向き合うことで弱くなったのかもしれないという不安をもたらす。そんなわたしでわたしは生きていけるだろうか、そう思う。私は耐えうるだろうか、とか思う。
ただこれって、歯医者で歯石を取ってもらった後の口の中の過敏さ、みたいなものと思ったりもする。
埃を掃除した方が、少しの埃が目立つのと似てるだけだと思ったりする。
そう考えると、そうだよねっていう感じになる。
私は単純である。
そうして、少しまだ薄ぼんやりしている。
裸になりすぎて、これからどんな服を着てみてもいいし、
どう生きてもいいという自由さで、まだなんだかぼんやりしている。
私は今裸ん坊。
まさに「薄皮がない」状態。
私はここから、『私の生(なま)さに合った』『私が見せたい私に合わせた』、薄皮・ベール・もしくは布のようなものを、着込んでいかなくてはならない。アラサーにして!現代社会は裸では過ごせない。
今度こそ、ちゃんとわたしを大切にしながら。
子供の頃は厚手の布をかぶって守らないとやってられなかった部分を。
ちゃんと「薄皮」から作っていく。
そう思うと、強い防寒や防弾が必要な行動が取れなくて
のんびりしている。
方向づけをするのが少し怖い。
薄皮がない、わたしがすべきことは
「今は方向づけ」なのだと思う。
薄皮がちゃんと巻けたなら、畳んだ布から必要な布を選んで、おしゃれもしくは旅支度をして出発ができるのだ。ちゃんと、過去の分の私が作ってくれた布もあるから、大丈夫と、言い訳をして。大丈夫。
まずは「薄皮」。
現在のスタンスをどういう風に持つか、外に見せるか。これからをどうするか。
薄皮を保てる方法は(=快適に生きていける方法)はどんな方法があるか。
きれいにコーティングするのは何でする?
寒天か、オブラートか、白粉か?
そういう柔らかいイメージで、まずは薄皮から。
そういう風に考えていて。
薄皮製造のために何ができるかなって思った時に、
薄皮としての文章を書きたい、と思った。
今までの文章は、基本的には生身にグサグサと針を入れて毒を出すみたいな文章だったから。人に言えないものを敢えて人に、そして自分に晒すためのものだったので。
これからちょっとだけ、自分の枠を作るための、人に見せれる「薄皮」としての文章を少し書いていきたい。なんて考えている。
という宣言文章を書いて、おしまい。
果ノ子
(なんだか書いていてふわふわ文章。今までは、人でなしである自分も自分である、みたいな気持ちと、こういう感情に向き合うところから始める以外に道はないだろーーーばりに、傷つけても厭わないみたいな文章を書いてた。それが必要だった。けど、これからは在りようをちょっと持ちながら書いていこうかなと。)
(なんて思いながら、自分の文章を見返していると、書き直したくなってきたりする。noteは一度公開したの非公開にできないのがちょっとだけ不便。伝えるために重きを置いたらどんな文章にできるかで、いくつか書き直してもみたいな。)
(東畑さんの本は色々読ませていただいて、個人的にすごい色々考えたから、それもいつか文章にまとめたいところ。)
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