「人」というものは見えない方がいいのかも
前回、「人が居るということ」という記事を書いた。
その時の気持ちの方向性は
人がいることを、わすれないようにしなきゃねぇという方向性だったと思う。
ただ、ここ数日お茶をしながら、ZOZO関係のニュースとか見ながら思う。
あー、なるほど。
何かを売りたいなら
何かになりたいなら、
何かを作りたいなら
その「人」というものは見えない方がいいのかもしれないな。
そんなふうに思った。
例えば物語で一つの文章に感銘を受け、大好きで大好きで仕方なかった時に
著者近影を見て、なんだか我にかえるような気分になったり。
会社という概念でぽわーっと思ってたそのイメージが、相対した一人の、一つの、言葉遣いで、そのイメージが四散したり。
某家具会社の家族の確執は、そのままブランドイメージにインプットされたり。
漫画を読んでてアニメの声が擦り合わなくて気持ち悪く感じたり。
ほんわかなツイートを見たくて追っていたアカウントが急に政治的になったりして、あー見たくなかったとそっとミュートにしたり。
そういうのはいくらでもある。
今は、特に個人も前に出てこれる。
「何か」の社長、「何か」を作ってる人、「何か」で働いている人
会社や商品、お店に興味を持てば
ツイッター、facebook、note、ブログ。
いくらでも、私が出会った美味しいケーキから、ケーキのお店、作った人、そういうのを辿れる。関わる人たちを知れる。
それは美しく楽しい出会いでもあるけれど。
同時に。私が出会った、過ごした時間以外の、その思い出以外のアラをいくらでも探せる欠点がある。
人は万能ではない。
私が対面した時の、それがとても素敵なものだったとしても
私が抱いた、その「何か」へのキラキラとしたイメージがそこにはあったとしても。
違う瞬間にはそのイメージとずれた違う側面を持っているかもしれない。
自分が大好きなものを軽くバカにするような側面を持っているかもしれない。
人が表に出ることで、
本当は知らなかった、人の人であるところを見て。
「何か」へのキラキラが薄れ、
残念に思ったり、次回がなくなる。
そういうことはある。
逆にその人となりで、相乗効果をもたらすこともあるけれど。
人ではない「何か」を売ったり、作ったりする時に、
その人がいなければそれはなくなるレベルの中核でない人が
顔になってしまうと
その「何か」の象徴になってしまうと
それは、それでよくも悪くもすごい不安定になる。
まあ、だからなんだ、なんだけど。
人は何かになれないし、
何かは人ではないのだけど。
そんなことを思うと
個人的には
このご時世に正体がわからない誰かが作るもの、
というものに長く惹かれる部分があるなー、ということを思う。
いつでも、読める、見える人より
ツイッターですら情報が少ない人の方が
こっちから探す・追う感を持ち続けられるなって。
正体知っちゃうとね、その時はうわー、知れる!好きだ!一緒!とか思っても
そこで満たされちゃうのかな。
いつでもいるし、知りたかった全体像はなんとなくわかったからで満足して。
探りに行く魅力っていうのは、半減する。
まあ私が飽き性なだけなのかもしれない。
見ようと思えば見える時代だからこそ、見えないものに惹かれる。
見せないということの価値は尊いやろなーって思いながら、おしまい。
果ノ子
(物には特に不満はなかったのに、人が前に出てきてて、それのイメージが何か<人になって、まあいいかなーになったもの、割とある。)
(あと、子供の頃から今まで追ってる作家さんで、残っているのって人となりがはっきりと表に出てこない人の方が多い。出てきても全部はわからない人。知れないから、次の本を買うんだ!みたいな。)
(誰でも脱げる時代だからこそ、脱がないを取るのもアリなんだろうなと。)
(非表示機能も揃ったので、noteそろそろ違う使い方をしていこうと思います。)
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