人が居る、ということ
私たちは、とかく「そこに居るのは人である」を忘れがちだなあと思う。
システムの裏には人がいる。
私たちが相、対しているのは人である。
人はいろんなものをシステム化することで、
無機質化して「人同士の接触」をなくすことで
何かに集中するための時間を作り、気をすり減らすことを減らし、
発達したり、効率化をあげたりしてきているけれど。
そういっても。
ちゃんと扉を叩いて、やりとりをしていけば
そこにいるのは人である。
なんてことを、最近メルカリを使い始めて思った。
私自身のAmazonの使い方と、メルカリの使い方を見比べながら。
私はAmazonで注文する時、宅配便業界のことを少し考える。
頻回に来てもらうのは迷惑かな?とか考えたりする。
それは昨今の、宅配便業界においての、その仕事の煩雑さやスタッフの過労が問題になっていることを認知しているからである。
だから、少しだけ宅配便のお兄さんお姉さんを気にしつつ、商品を購入している。
せめて週1にしようと思ったり。そういう気遣いをしている。
そして最近。
メルカリを使い始めて思ったのは、画面の向こう側の人が、なんというか近い、ということである。
画面の向こう側にいるのは、ちゃんと一個人だ。
業者なのか、主婦なのか、なんなのかは不明である。曖昧である。
でも、できたら私も向こうも良い取引で終わればいいし、ほしいものをより良い形で手に入れるためにも、良い対応をしようとしている私がいる。
中にはメルカリでも、ネット通販と割り切って、他の通販と同じくシステマチックな対応をする人もいるだろうけど、そうしたい時もあるのだけど。メッセージとして「人と人」としてコメントしあう場面があるからか、私にとっては、やっぱり画面の向こうにいるのは「人だな」と、思いながら取引をしている。
そういうことを考えてみた時。
私はAmazonと、それを介した取引をした会社に
「人を見ていない」そう思う。
そこにあるのは、ネット通販というシステムだ。
それを利用するもの利用されるものという関係性だ。
メルカリではメッセージの時間すら少し考えるのに、アマゾンでは深夜でもなんの躊躇もなく購入をする。 そのボタンを押すことに躊躇はない。
きっと私は、その時そこにシステムを見ているからだと思う。
システムしか目に入っていないからだと思う。
人が目に入っていない。
そして、その時。
相手側だけでなく、自分をも記号化しているな、と思う。
システム。
その作られた設定に収まる。
物事の目的だけが果たせるように、動く。
システムからの逸脱を避ける、その一部になる。
そういうのは、いろんな場所にある。
作られた歯車で回転がうまくいっているときは良い。
回したい側と回されたい側の利害が一致しているときは良い。
けど時折、人はシステムに頼りすぎていて、システム側の流れが滞ったりすると、システムがうまく役割を果たさなくなると、過度に感情を露出させたりする。
そんなことも思う。
例えば、飲食店で混雑していたとして、頼んだものが遅すぎる!とどなる人がいる。その怒りをなかなか収められない人がいる。
ただ飲食店でバイトや何かで働くことがあれば「そういうこともある」と知っている。「きっと忙しいから少し待とう」などと思うことができる。
それは多分システムではなく、働いている「人」の姿を仕事を知っているから持てる姿勢である。システムの先の人を見ている。
人は、人が見えないと、少し自分の感情の扱いも観念的になるよなって思う。
私自身も、先のようにお店や病院では働く人を知っているから、そうそう怒る事はないけれど。ただサーバーエラーで見たい動画が見れない!となった時、私なんかは、なにやってる!運営!と思ったりしてるな、と思う。
なぜにこのタイミングでエラーか!と憤る。イライラする。
きっとそれは、私は彼らがどう働いてるか知らないからなんだろうなと思う。
ネットサーバーがどう人の手によって作られているかをちゃんと知らず、抽象的にしか考えられないから、飲食店でスタッフに同情する様には同情できなかったりして。不満がそのまま残ったりする。
遮られた何かの怒りがそのままくすぶる。
想像する先に、「対人」を想像できるか、そうでないかで、
感情の純度がなんとなく違う。
どうにもならないことへの怒りと、人の顔が見える怒りでは少し質が違う。
何もかもにイライラして悪態をつく時、そこに人が想像できるとその悪態は小さくなる気がしている(逆の人もいそうだし、逆の場面もあるけれど)
またネットやパソコン社会というものを考えると、
基本的に「人と人とのやりとりを無機質化する」「システム化することで利益を得る」「個を大切にというよりは多勢を取り込み切り捨てる」そういうことに長けることで成り立ち、発展している分野であるから。
何かトラブった時に、そのシステムが上手くいってないじゃないか!みたいな、私たちは対人であることを忘れて、人に対面した時とは違う、そのままの形で気持ちをぶつけたり、ぶつけられたりする。
そこにあるのは個人ではなく、ハンドルネームだったり、記号だったり、概念だったりする。
システムは人を記号にして、あやふやにさせる。
感情を純度化させたりしたり、しなかったりする。
…
まあ、何書いてるのか少しわからなくなってきたけど。
そして、そんなこと書いていても、
私はシステム化って好きなのだけど。
簡略化、データ化、分類、その他諸々。
そういうものがなかったら、一つのことにもっと多くの手間を持ち
私は今いるような場所には入れなかっただろうし。
良くも悪くもちまちまと人とやりとりをして生きていただろう。
と言っても、ちまちまするのももちろん好きだけど。
やはり人と人が顔をあわせるのは、無駄の中にある余地みたいなものは
それなりに面白いから。
ということで、ようは想像力の問題だったりもする。
どう思い、どう想像できるか。
知ろうとする姿勢はあるかは大切。
ただ、かと言って
システムの側(がわ)を外して、
普段の人間関係でも仮面剥ぎ取って、
人と人として向き合った時。
それで互いが必ず理解しあえるわけでもないっていうのは
なんとも難しく、「世の中は魑魅魍魎だな」みたいな
悟りを感じるところではあるのだけど。
でも、それすらもなんか余地があるところだよなーとか
散文を書いておしまい
果ノ子
(ただ、想像力はあればいいってものでもないのよね)
(こういうこと書いてると酔う気分になる。人はたくさんいる!圧倒される感じ)
(人の心が人の数だけ、自分と同じようにあり、私が持っている軸と違う軸で生きていて、善悪も美醜も好き嫌いも快不快も異なっているって思うと、本当すごくて、そういうのをシステムが覆い隠しているというのなんだか、ときおり、ゾッとしたり部分があったりする。)
(私は人としての側を被っている、みたいな。人が人であるっていうのもある意味システムだしね。)
(なんとなくマトリックス的な感じの気分)
(ちょっとふわふわすぎて、日本語わからんを直した。けど、まだふわっふわだ。でも、こういうのは根つめて正しくするよりも、ふわふわさせておくで良い気もしている。)
(昔書きながら酔った文章↓性質としては一緒)
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