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加害者に足りうる私を選ぶということ

前々前回ぐらいのノートに
「ちゃんと大人になったのだから能動的な加害者になるのだ。」と、書いた。
それは感覚的な言葉で、気持ちに合うけど、なんだ?加害者…?というかんじ。
当時はそれ以上の言葉がなかった。

そのノートを書いてからしばらく、なんだかあまり書き物をする気分がしなくてそんなに物を書かずにきた。

色々思いつつ、生活しつつ
人の加害性ってなんだろうなーということについて
時折思い出しながら過ごす。


だいぶ話は違うけど、医療というのは侵襲性を持つ行為である。

自然にある身体に、劇薬を使用する・力を加える・メスを入れる。
ダメになった臓器を切り離し、地を流れさせ、止血のために焼く。 

それらは過去の医療の先人達が研究し、この方法なら人を助けられ、悪いところだけ取り除けるだろうとされた、手法たち。その行為をすることは大体が目的に沿ってその利点があると、医療の中で認められた行為である。

その方法の侵襲性については、医療の中で目指しているものに効果的であるから、普段は言われないけれど。看護師であり医療職である以上、わたしはよく知っていると思う。

医療は侵襲的であり暴力的でもあると言うことを私は知ってる。


そのことは普段は治療することの善性によって、また命を救うという行為そのものの恩恵によって、普通の人からは目立たず隠されている部分でもある
また知っている私たちも、ルチーンの中では大きく考えたりしない。

けれど、時折それは表に出てくる。

医療としてのスタンダードさと最善策を限りある資源の中でどんなに図っていても、患者さんの状態によっては少しの点滴という水分補給で、見た目痛々しいくらいに浮腫ませてしまうことがある。
体位交換ひとつとっても、脆くなった体では骨折をさせてしまう可能性もあって。
また人工呼吸によっては肺に傷をもたらす可能性もある。
薬だって、アナフィラキシーショックやアレルギーをもたらす可能性もある。 

ちょっとした違和感を忙しさにかまけて対応できなかった結果、少しのことも重大な事象になりうることがあるのだ。

結果、この行為はすべきではなかったのではないか、もっとこうできたら良かったのではないか、という振り返りや行動は、日々の中でどうしても存在して。
試行錯誤しながら、その患者の利益に合わせて、その加虐性を調整していくのが医療である。


また、結果的にやっては良かったと言う話になっても、心臓マッサージをして息を吹き返した人の肋骨は折れるし、AED(除細動器)によって火傷を負うかもしれない。事故で命は救われても下半身不随は残り、「なぜ助けた?」から「生きていてよかった」と患者さんが思えるようになるまでは多大な時間がかかるかもしれない。

侵襲がある「力」を使った行為。
そういうことを医療はやっている。

命を助けるという名目で。

その技術に基づいた暴力性を、その侵襲性を。暴力で終わらさないように、良いものに変えれれるように努力し続けるのが、医療なのだと私は思う。 

しかし、時に。
その力が強い行為によって、患者の回復が有効に働かなかった時。

患者が感じる利点が、その暴力性に勝らなかった時、医療者は加害者になる。 

傷をつけた、「利」ではなく「害」を与えたがおもてに出てくる。
場合によっては法廷に立ち、法律上の枠組みでも加害者の是非を問われる。 

その医療が、助けと呼ばれるか、加害と呼ばれるかはそれは本当に紙一重だ。
だって人によって「助けられたさ」も、「助かるとはどういうことか」も、それは個々で異なることだから。私たちは日々の中で、その天秤と向き合っている。

侵襲が高い医療は、加害の意識を持っていなくても、いつでもそうなりうる。またそれを、加害だとわかっていても必要としてすることもあるし、また正しいと認識していても、結果加害だったと終わることもある。

きっと多かれ少なかれ、私たち医療者は
いつでも加害者になってしまうかもしれないことに怯えている。
自然に亡くなることと、侵襲をもたらし亡くなるはやはり異なる。



少なくとも私はいつもどこかでびびっていた。

私の判断の一つで、目の前の人の害を成してしまう。
加害者になるかもしれないリスク。
日常の看護・通常のケアというものも、ちょっとしたことで加害に変わるリスクを孕む。
この胃に入っているであろう管が、とぐろを巻いて肺に入っていたら、私がご飯がわりの栄養剤を管に繋ぐことで、この子は肺炎になってしまうかもしれないということ。
忙しさに一瞬目をそらしたことが、安全の足りなさで事故につながる可能性があるということ。
死が近くにある患者さんを対応する時は、私がする・私がした、その行為が最後の決め手になる可能性は常にあり。
私の安易な一声が、その人が聴く最後の言葉になる可能性、誰かを傷つける可能性はいつだってそこにある。


そこに近い私たちは、暴力的だと、私は思う。

それでも医療者は恐れながら、けれど恐れを出さずその行為をする。


では、何故そんなことを続けられるのか。
なぜ皆、続けられるのか。そんなことをぼんやり思う。



そう考えると、きっとその侵襲性の先にある、それに勝る『人を助くる』ということを肌を通して知っているからなのではないか、と思う。

というかそれを知らなければ、その知を持たなければ。
その裏付けを持たなければ。
医療の侵襲さと付き合うのは難しい。

私たちはいつでも加害者たりうる。

それを知っていて、その『人を助くる』が、
本当にその患者の望む助けなのかを常に考えながら、その侵襲性が暴力である面を認知しながら。
暴力性に振り回されぬよう、研究し、状況に対応し、変化していける医療を、私は嫌いではない。



と、今語ったことで1記事にすれば良かったなーと思いつつ、書く。
  
私はもっと力をちゃんと持ちたいと。
医療者として、大人として。

その感情自体も、そのための鍛錬自体も
人を傷つけるかもしれないリスクを多分に孕むことを認知しながら。

私は強くなりたいのだ。

加害者になりうるかもしれない、わたしをちゃんとコントロールしたい。


ただ「強くなりたい」という
その感情に強烈なブレーキがかかっているのも知ってる。


私は、昔から母に
人を傷つけないように生きることを望まれていて。
少なくとも望まれていると思っていて。

それが多分に今のわたしのそういう気持ちを阻害する。



子供の時、負けず嫌いだけど泣き虫だった私は
武道をしてみたかった。

「強くなれたらと思うから」それをしてみたいと言った時、
「あなたは人を傷つけたいと思っているの?」と悲しまれた。
子供ながらにそうではなくて、人を守りたいような感覚を説明しようとしたが、それは母の嘆きの中に消えた。
あなたは暴力を肯定するの?戦うことが良いことだと思っているの、と。
観念的なことをうまく話すのはほんと難しい。

だから、私は「強くなってはいけない」と何処かでずっと思っていた。

強くなることを望まれていないのを知っていた。
加害者になるぐらいなら死を選びたがる母の精神を知っていた。
ただそれと同時に子供の願いのように「強くなりたい」とずっと思っていて。
その狭間で試行錯誤しながらも、どこか強くなることに怯えていた。

ちゃんと強くなってしまったら、母親に望まれない人間になることにどこか怯えて。
人を傷つけたいわけではないのに傷つけるかもしれないことに怯えていた。

わたしはいつまでも親の望む小さな子供だったのだ。


ただ、機は熟して。
私は充分に大人になった。

親の望む小さな子供、それを辞めようと、今更思う。
ただ、もうちゃんと強くなりたい。

「ちゃんと大人になったのだから能動的な加害者になる。」

誰かに選択されるという受け身ではなくて、何かあったときに加害者ではなく被害者であれる弱さではなく、傷つけるぐらいなら死んでしまえるような繊細さではなく。
自分で選択するという気概を持とう。

傷つけるのを厭わない、悪い子になって。
けれどそれをリカバリーする、抱括できる力を持つ。
愛されるではなくて、愛する気概を持つ。
そういう大人をちゃんと目指したい。


そして思う。

本来、大人というものは、それ自体がその存在そのものが
子供にとって強者であり、暴力性を持つということを思う。

大人になることはそれだけで、力を持つことだ。
医療ほど限局して特化した力ではなくても、存在だけでいくらでも加害者足りうる

大人は自分で選択をする。
その選択できるという力を持っているということは、選択できない他者よりどうしても、強い。 

というか選択できるかにかかわらず、
生きているということは、命を喰らい、他人の犠牲を使って生活し、勝つ者がいれば負けるものがいる世界であって。子供であっても誰であっても。

大人になるということは、そういう世の中の成り立ちの残酷さを知っていくことではないかなとも思う。

力の大きいものを責めるだけの被害者ではいてはいけないのだ。


先に書いた
「ちゃんと大人になったのだから能動的な加害者になるのだ。」というのは、
生きることの、それ自体が持つその暴力性を認めながら、それが酷いことかもしれないことを知りながら、律し、考え、かくあるべき方に進もうと考え続けることを私はしたいということなのだと思う。

生きていくうちの、何かのためにするということすら、暴力性を孕むものだったりするから考えすぎると頭パンクするけれど。
なかなか難しいのだけれど。


私は、生きていくことの暴力性を伸ばさず、小さく慎ましく生きていくこともできる、いまの世の中の中で。(動物殺さなくても生活できるしね。)
私は積極的には何も傷つけない
という立ち位置に居続けることも拒んで、暴力性を放棄せず生きてみたい。

そのことが非難されることを知っていて、なお。 

私はそれを選ぶ。

こういうことを母に言ったら、それだけで加害者みたく扱われるのを知りながら。

私は、律された力の先の、その可能性を信じてする何かの大切さを信じていたい。

人を傷つけるかもしれなくても、人に真実を告げること。
危機を見ないふりして、避けるのではなくちゃんと向き合うこと。

そういう一歩踏み込んだこと。

相手を、ひいては自分を傷つけるかも知れない行為を。


やらなくていいなら、本当はやりたくはないこと。
けれど、それを請け負う。
責任を持つということ。そういう人にちゃんとなりたい。

きっとその欲だってきっと私の中の暴力性で、加害性で
いつだってなにかと紙一重だということを知りながら。

能動的に生きたい。



というぐだぐだした話。

(ちょっと手直ししたけど、やっぱりグダグダした文章のまま。スッキリしないなー。10/31)

果ノ子


(久しぶりに内面的な文。同じことをぐるぐる言っている文章。読んでても読みにくい。強くなるということに罪悪感があるということは、自覚的ではあるんだけど、足元のすくい方が地味にジワジワなので、削られてる時には気づかないのよね。そのタガを外したくで、グタグタした分のまま出してみる。)

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