何度読み返しても馴染むことがなく 必ずざらつく場所がある。 母に比べればまだまだ薄く 父に比べればまだまだ重みが足りない そういう歴史の本の1ページにざらつく場所が存在する。 傷つかないように生きてきた歴史の本は貫禄も厚みも重みもない。 だから、あの1ページが嫌に目立つ。
母が小説家になったのは私が生まれるよりも前のこと。 父はそのもっと前から母の物語が好きだったそうだ。 母は時々、温かい歴史を話した。 父が登場するその話が私は好きだった。 でも、父がいない今、それが歴史か物語か見抜くことはできない。 母はきっと、まだ隣にいて欲しかったんだと思う。
幼い頃から母の取材を見てきた。 取材の先に広がる景色は全く別の世界で繰り広げられていて 退屈な世界も、厳しい世界も、深刻な世界も見てきたつもりだった。 私が何も知らなかったらブルーを踏み締める彼らはどう映っただろう。 今の私には、高揚しているように映る。 彼を見る私も、また。
「どんな主人公?」 夕飯の時にサラリと聞いてみる。 「それは読者としての質問? 作家の娘としての質問?」 「昔ブルータータンを走っていた人間としての質問かな」 「ではそれは読者からの質問と捉えましょう。そして答えは“読んだ時のお楽しみ”です」 母はイタズラっぽく笑った。
今回はね、ここが舞台。 この青いトラックを囲む人たちの物語を描こうかなって。 一歩一歩努力を刻む人 タイムを見て、水を渡して、彼らの走りをサポートする人 粘れって鼓舞する人 ここにはさ、色んな物語が詰まってると思うんだよね。 そう思わない? _と、母は私の顔を覗き込んだ。
暑さも、緊張も、声援も、疲労も、何も感じない数分間。 それを「凪」と呼んだ人がいた。 凪の世界を想うと、体の奥で響く音がある。 それがタータンを弾く足音だと言うことはもうずっと前から気が付いている。 たぶん私は、青を待ち侘びている。 昔も今も、このトラックの外からずっと。
大人になったあなたの 物語の先にある景色を一緒に見に行かない? 今回ばかりは一緒に見たいの。 …って。違うか。 “一緒じゃないと見られないの”。 作家としても、生きる上で役を担った人間としても、私はあなたを見守るから。 この物語の主人公の、あなたを。 だから、聞かせて
ブルーのタータンを見つめる姿をこの目に焼き付けた。 その瞳に宿るいくつもの想いをひとつも溢すことなくこの目に焼き付けたかった。 じっとブルータータンを見つめながら、その拳を握りしめていたことにあなたは気付いてる? 私は知ってるよ。 必死に足掻いて、今も戦っていることを。
物語の主人公はもう決まっている。 物語の舞台も。 あとは主人公の目を通して世界を見つめるだけ。 そのために青い世界に足を運んだ。 普段は誘わない娘を誘って。 今回の本はどうしても読んで欲しい人がいるのだ。 本を手に取ってもらう為には、娘の帯同は必要不可欠だった。
美しい景色とは、どんなものだろう。 いつもは気にも留めないその言葉がこんなにも気になるのはなぜだろう。 過去の感触ゆえか タータンを見つめる母の目ゆえか 振りまく汗すら輝いて見える選手たちゆえか どんな理由であれ 私はブルータータンという舞台に、どうしても興味を持っていた。
取材に行こう、と誘ってきたのに 母はタータンを弾く選手たちの声は聞かずにトラックを去った。 もういいの? もういいの。 取材っていつもこんな感じなの? いつも通りの取材なんて、ないの。 物語の先の景色、見えた? まだ。でもね 美しい景色が待ってるんだろうなって思った。
まさか、またあのルーティンを思い出す日が来るとは思ってもいなかった。 母はどこまで見えていたのだろうか。 青を前に心が揺らぐことを分かっていたのだろうか。 これも全部母のプロット通り? もしもそうであるなら、やっぱり母は母であり同時に作家だ。 プロの母でプロの作家なんだ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。 足を震わす仲間にも、肺が震える自分にもそう言い聞かせてきた。 2年後にはそれがルーティンとなった。 スタートラインに立ち ウォッチに手を添える時 静かに呟く__大丈夫。 最後の試合から5年。 真っ白のラインを見つめて目を瞑る。そして… 「大丈夫」
緊張の正体への対抗の術は、自分自身を納得させること。 時間が、足が、肺が許す限り走った。だから…大丈夫。 だから、そう。 ピストルが鳴るまでの数秒間に「大丈夫」と言い聞かせられた時は、強い。 自分だけは嘘偽りのない踏んだ距離を知っているからこそ最大の敵にも味方にもなり得る。
ピストルが鳴るまでの数秒間に「大丈夫」と言い聞かせられた時は、強い。 緊張の正体はいつだって不安だった。その大きさは走った距離に反比例した。 On Your Marksを聞くまでの、全員がライバルになるあの瞬間 最大のライバルで最大の味方にもなるのは過去の自分だといつも思う。
ねぇ、走れるの? そんな足を捕まれるような声が押し寄せる時がある。 でも集中しようとするほど大きな音で問いかけてくるその声の正体を教える代わりにある人が言った。 「緊張って英語でtensionって言うんだよ。だったら上げてくしないよね。だって、やれるだけ練習、したんでしょ?」
負ける気がするレースというものが存在する。 そして同時に、勝てる気がするレースも。 リズム、メンタル、テンション。 そういうものが1つでも良いと勝てる“気がする”。 でも実は、その思い込みが大事だったりもする。 負ける気がするレースは 初めから勝負をかけようとはしないから。
母はいつも物語にいて、私は対抗するように母の本を手に取らずに生きてきた。 でも、今回ばかりはつまらぬ意地を捨てて手を伸ばしたいと思った。 理由は明白だ。 視線が足に馴染かけているブーツに向く。 もっと、足と地面の距離が近い時があった。それは、最も苦しくて最も輝いていた時のこと。
作家としてもう歩けないと思うことないの? どうかなぁ 物語の先に何が見えるのか、気にならない? 私は気になる そして、その景色を誰よりも先に見られる特権が作家にはあるの 母は笑った。 私が見られなかった景色を見せてくれるような気がして母の本を読みたいと思った。生まれて初めて。
どんな話なの? まだ主人公を掘り下げきれてないから分からないな そう言うもん? 今回の場合はね。 私が描く物語だったとしても、それは私の物語ではないから。 作家としても、生きる上で役を担った人間としても、見守るの。 答えの見えない物語を描こうとする母は何だか楽しそうだ。
青いトラックを囲む人たちの物語。 私の物語はどんなだろう。 私にとってのブルータータンは _夢を見た場所 _背中を追った場所 _涙を呑んだ場所 _足音に追われた場所 高揚感と恐怖が漂う場所だった。 そんな場所がどうしてか今の私には輝いて見える。 多分私は、好きだった。
目を瞑るとシューズがブルータータンを弾く音が連なって聞こえる。 タンタンタタンタタンタン 2人の人間の異なるリズムが偶に合い… タッ/“踏み込んだ” そう感じて目を開けると連なっていた2人の距離がひらく。 勝負をかける高揚感と付いていけない弱さを思い出し足先が疼きだす。
母がページを捲った物語は続いていく。 登場人物たちは5歳ずつ年を重ねた。 走り出せない弱さを持ったままの私も。 でも母は振り返り、言った。 「取材、一緒に行く?」 それが「歩かない?」という誘いだったことに 母の優しさだったことに 目の前のブルータータンを見て初めて気付く。
向かうのはテーブルばかりで 見ているのは文字ばかりだと思っていた。 でも母が走っていたのは私が生まれるよりもずっと前からで 闘い続けて、粘り続けて 私が止まろうとしても母は止まらなかった。 そうやって背中で見せる人だったけど今度は振り返って手を伸ばしてくれたんだと気がついた。
慰める訳でも、軽蔑する訳でもない。 ただ 「もう出会えないなんて誰が決めたの?」と問いかける母の瞳は 真っ直ぐにこちらを見据えて「止まるの?」と聞いている。 「あなたは、そこで止まるの?」 母の瞳の奥底に物語への熱誠を見た。 母も同じように走っているんだと知った瞬間だった。
母は母であり同時に作家だった。 「そんなにも病みつきになるのはどんな瞬間を知っているからなの?」 怪我を知ると母はそう聞いて私の中に眠るページに手を伸ばす。 「まるで凪みたいだ。それにしても、その瞬間にもう出会えないなんて誰が決めたの?」 ページを捲るには充分な言葉だった。
左足のふくらはぎが肉離れを起こしたのは 高校最後の全てをかけた夏だった。 あの夏、あの瞬間、 ぷつりと音をたてて私の中の何かが切れた。 繋ぎ止めたのは… 何も感じない数分間を凪と言った母の言葉。 「まるで凪みたい」 叶うなら凪の世界でもう一度この脚が刻む音を聞きたかった。
あと少しで、もう少しで、絶対に手が届く そんな確信めいたものを感じている時こそ試されることがある。 バンッ!! 後方で響く音の正体を動こうとしない脚が知らしめる。 痛みよりも絶望が押し寄せて全身が強張る。 あと少し、もう少しだったのに…! これが、ざらつきの正体。
母と父はノートとペンのようだと思うことがある。 ペンを走らせる時に摩擦が生まれることがあっても、読み返す頃には涙が滲む手紙のように濃厚な歴史になっている。 そういう関係をこの脚とあの青い場所で築くことができたらよかったのだけど 私とブルータータンはノートとペンにはなれなかった。
「取材、一緒に行く?」 そう声を掛けてきたのは新作の構想を練っている最中の母だった。 「今回の本はどうしても読んで欲しい人がいるの」 と、意気込む母の誘いを無下にはできず、カーディガンに手を伸ばす。 軽い気持ちで付いて行ったそこには 待ち侘びていたはずの青が広がっていた。
暑さも、緊張も、声援も、疲労も、何も感じない数分間。 そういう時間を生きたことがある。 ただ息をしていた訳ではなく、確かに生きていた。 それはまるで「凪」。 凪の世界で覚えているのはこの脚が刻む音だけ。 あの数分間で刻まれた音は今も体の奥で響いている。 青を待ち侘びている。