人の身体は文字通り身と体に分けられる。神社等で清めるのは前者の身のほうで、こちらは触れることができない。同様に木にも身体があり、木の体はご存じのように不動であるけれども、その身は物に囚われず絶えず動いている。清まった身で晩秋の木に触れれば、あたかも紅葉が我が身に沁みるようである。
光蔭矢の如し。「時が足りぬ」と自己実現に向かひ、人は時を失ふ。偽りの自己を実現をすれば、今度は「意志が足りぬ」と天命の意味に迷ふ。こうして大概の人がさらに時を失ふ。しかし空から觀るならば、時も意志も己の裡になく、己すら借物であったことに氣がつく。時と意志から遠き場に身を置かれよ。
人有恒言,皆曰,「天下国家」。 天下之本在国,国之本在家,家之本在身。 —《孟子》
六根清浄の「清浄」は10の-21乗ということで極小を表し、「六根」は眼耳鼻舌身意の六つを表す。六根を澄ますようとした仏教用語だけれど、この場合の身とは何か。どこからどこまでが君の身なのだろうか。そして、本居宣長は意を「こころ」と読んだけれども、この意とは何か。言葉を用いず、示せ。