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小田原北条🐄をみる

天正17年(1589)6月5日は摺上原の戦いで伊達政宗が蘆名義広を破り南奥州を制覇した日。東側に布陣した伊達軍と西側の蘆名軍は始め蘆名軍が優勢な戦況だった。しかし強い風が西から東へかわり形成は逆転し政宗が勝利した。しかしこれは秀吉が出した私闘を禁じる惣無事令を無視する行動だった。

天正18年(1590)5月27日は秀吉の小田原攻めの陣中にて名人久太郎こと堀秀政が病没した日。信長の側近として頭角を現し秀吉にも重用された。小牧での対陣から徳川の三河を目指し別動隊として参加した長久手の戦いでは池田恒興、森長可が討死する中で秀政は反撃し別働隊の崩壊を防いだという。

天正18年(1590)3月1日は秀吉が後陽成天皇から北条氏討伐を名目として節刀を賜り小田原攻めに出陣した日。前年11月24日に北条氏直に最後通牒発し家康ら諸大名に準備させた。総勢21万の戦力で攻め7月に小田原城は開城した。想像を超える数を揃えられるとどうしようもない感があります。

天正18年(1590)8月12日は秀吉の小田原攻めで敗れた北条氏直が高野山に入った日。初代早雲以来5代で関東の覇者北条氏は終焉。実権は切腹となった父氏政にあったとしても氏直が最後の当主。先代が口出してやりにくかったのかなと想像しますが続いたものを自分が終わらせるのは辛いですよね。

天正16年(1588)8月22日は北条氏直が惣無事令に応じ家康の斡旋で叔父の北条氏規を上京させ秀吉との和議をはからせた日。この段階で秀吉に従う決断ができていれば小田原攻めはあったでしょうか。先延ばししていて思わぬトラブルが起きて取り返しがつかないパターンに嵌まったように見えます。

死と隣り合わせ

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三所攻めがあるのなら 小田原攻めもあってよさそう #相撲 #決まり手 #勝手に言っている

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天正16年(1588)10月26日は秀吉の斡旋で和議を結んだことを祝う手紙を家康が伊達政宗に送った日。既に関東より西は秀吉配下にあった。前年に関東・奥州に向けて大名同士の私闘を禁じる惣無事令が関白秀吉の名で出されており伊達・最上・佐竹・蘆名・岩城・相馬らは和議を結ぶことになった。