日本語能力試験(JLPT)の問題集には【名詞】+〇〇とよく書かれているけれど、「の」や「こと」で名詞化することで動詞も接続できることについては、学習者があまり認識していなさそう(だけど実際には結構使われている)。
なんかいいな、レパートリーの豊富化って響き。文型積み上げ!みたいなギチギチした感じがしなくて肩の荷が降りるような気持ちになる響き。レパートリーの豊富化!
・文法的に「正確な」文だけを授業で見せても、正確に文を産出できるようになるわけではないし、モニタリング能力が高まるわけでもない。 じゃあどうする?ってところ。
【メモ】 ・英語のnounificationは別の単語になるが、日本語の名詞化は接辞がつくという点で働きも違うし、発生するタイミングが異なる ・英語と日本語では受動態を使うタイミングが異なる ・漢語の意味の厳密さは過剰な意味を生成することがある。
日本語学的な知識体系は「意味」を説明するには役立つけど、ことばを使うために学ぶには全く適していないと思う。初級・中級・上級みたいなのも、学ぶべき文法リストも一度解体する必要がある。
「日本語学習者にとって、オノマトペは難しい。」の「にとって」が難しい。難しいと感じているのは日本語学習者。でも、難しいと判断したのは書き手。書き手は、日本語学習者と重なる場合も重ならない場合もある。判断の動作主が文中に現れないから使い方が分かりにくい。
日本語単独でCEFRのA2やB1レベルであることは、すべての言語レパートリーやリソースを活かした場合にB2レベルやC1レベルに挙げられている行動が取れる可能性を否定しない。そうでなければ、外国にルーツを持つ生徒たちの行動は大幅に制限されているはず。
日本語学(あるいは、日本語教育文法)的に異なる範疇に入る語だったとしても、学習者は意味の類似性から似た表現と認識している可能性はある。「XとYは何が違いますか」の組み合わせが必ずしも教師が想像するものにならないのはそのあたりが原因なようにも思われる。
日本語学校生活コーパスとか作ってみたいね。学校に来てから学校を出るまで日本語で見たものを全部教えてもらってコーパスにする。1週間×5人×3学年やれば、どんな日本語に触れているか、どんな日本語を理解することが期待されているか分かる気がする。
学習言語能力と生活言語能力を対比して、生活を劣ったものとみる向きがあるという指摘を以前どこかで見たのだけれど、生活とのかかわりが存在しないものもあるし、そこを強調してしまうと、生活に役立たない者は無価値みたいな雑駁な論理に飲み込まれそうな危うさがある。
外国にルーツを持つ子どもが学校に一人しかいないと一人でできるように、と思って指導をする。だけど、ある程度人数がいる学校だと、ほかの生徒と協力したり、サポート体制があったりすれば、日本語能力不足とは思われない。それも能力の動態性だよなあと思う。
自分の授業は基礎から応用にではなく、生徒が生活する文脈に沿った言葉遣いとの遭遇の場所にしたい。そのためには学習する項目数を精選してそれに触れ、使う機会を担保する必要がある。そのために授業をどうするかを考えたとき、内容と方法がいかに緊密に関わるかがよく分かる。
教科書はやっぱりアカデミックな文体ではあるものの大変人工的な文章でもある。だから、検定済み教科書を理解するのに必要が言語知識が身についても、大学の「教科書」を読むにはあまりつながらないんじゃないだろうかと思ったり。
教師が文法を細かく教えてその知識が学習者に移植できるかどうかと言われるとそれはNO。だけど、そうすることで、文法的なものの見方、分析の仕方を身につけるというのはありうる。だからこそ、「内容」と「方法」の両輪が重要になってくる。
「にとって」の中でも、「手にとって」と「メモにとって」は「子どもにとって」「人類にとって」とは意味が異なる。
「とともに」は「~といっしょに」というよりは「AだけでなくB」と解釈した方が理解しやすいものもあるのでは?「報告書は,創意あるものにするよう工夫する【とともに】,その内容が他の人に正確に伝えられるよう心がけなければならない。前件は当然、後件は書き手の考え・主張みたいなのを感じる。
「にともなって」は名詞(「の」+「にともなって」はかなり少ない)と、「につれて」は動詞と共起しやすい(少納言・教科書コーパス調べ)。接続のパターンはあるけど、意味が類似しているとき、接続形が少ない方がプロトタイプ的に使われるのかもしれない。