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美術史第95章『室町時代後期・戦国時代(北山文化・東山文化)の美術-日本美術9-』
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南北朝時代終結から数年後、南北統一を果たした義満は幼い息子の義持に将軍位を譲り出家するが実質的な政治の絶対権力者であり続け、さらに南朝を日本王としていた明に日本王として認めさせて日明(勘合)貿易を始めた。
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また、義満はその隠居生活の中で一階が寝殿造、二階が武家造、三階が禅宗様になっており金箔が貼られた「鹿苑寺(金閣寺)」を京都の北山に造営して活動拠点とし、そこでは連歌、茶道、生花が行われ、明王朝から取り寄せた唐物が陳列されており、このような公家文化と武家文化、そして禅宗文化などが融合した文化は「北山文化」と呼ばれる。
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絵画の分野では唐絵の似絵(にせえ)がつくられて愛好され、中国の夏珪、馬遠、牧谿、梁楷、玉澗らが珍重された他、禅宗を保護していたことで禅僧による「五山文学」が繁栄し、画僧の明兆や如拙、周分らにより水墨画が大いに隆盛した。
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また、他にも世界的に著名な能の世阿弥も北山文化の人物で、それにより彫刻の分野では能面が作られた。
義満の死後、義持は日明貿易の一時停止など守旧的な政策を行い、息子の義量に譲位するが早世、さらに自身も死去し、その後、くじ引きで僧侶になっていた義満の息子の一人が連れ戻されて義教として将軍に就任、また、義満の死後には大名合議制度に戻ったことで将軍の権力は弱まり、民衆による土一揆や後南朝の誕生などが起こっており、義教は就任すると権力復興のため土岐、赤松、大内などの継承争いに介入、反抗的な勢力を討伐したが恐怖政治が恐れられ暗殺された。
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15世紀中頃、次の義勝が早世したことで義政が将軍となり、彼は「東山御物」と呼ばれる数多くの美術品を収集していた将軍で、義政は弟の義視を後継者としたのに子供の義尚が産まれてしまったことで後継問題が起き、これに斯波氏の後継者争いに介入してきた山名宗全に大内政弘などの勢力が参加、山名大内によって反義視派の政所執事が失脚したことで義政も実権を失った。
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さらに、山名が畠山氏の後継争いに介入して、そもそも大内と対立していて反対側に肩入れしていた細川勝元と対立、細川勝元と山名宗全率いる全国の大名が衝突し「応仁の乱」という大きな戦争が首都の大都市京都で勃発、戦争は泥沼化して10年以上続いたが、結果、山名の西軍が消滅した。
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一方で義政は将軍を名目上は退位し実際には権力を握りながら山に「慈照寺(銀閣寺)」を建立してそこで暮らしており、建築に熱を注いでいたため造営費用のために実権を手放せずに二重権力状態を生み出していたとされ、義尚は義政の権力を削ぐために室町から出て政治を行った。
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一方、応仁の乱の後には幕府の権威は地に落ち、当然、多くの守護大名が戦地になった京都に住んで各地を治めるのをやめ自領に移住、守護大名は部下の守護代や民衆による下剋上、つまりクーデターや、加賀や山城の一向一揆に代表される民衆による一揆に脅かされる時代となる。
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15世紀末期、義稙が将軍となるが遠征中に細川政元や日野富子などが政変を起こして大名は将軍の支持で分裂、「戦国時代」が開始し、細川が実権を握るが権力争いで暗殺、義稙が復位するが、細川氏の内乱の中で義晴が将軍にされ、それを倒した細川晴元が「細川政権」となるが、三好長慶の「三好政権」が政権を掌握、これらにより室町幕府は完全に各地を統治する機能を失い、三好に反発した義輝は数百の幕臣と共に虐殺された。
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応仁の乱以後には北山文化で開花した文化が生活文化に組み込まれ、幽玄で侘び寂びの美意識が誕生したと言われる「東山文化」が繁栄を開始、義政の「銀閣寺」はその象徴的な建造物であるとされ、東山文化の著名な建築としては「銀閣寺」の他「慈照寺東求堂」「大笹原神社本殿」などがあり、庭園では水を用いない夢窓疎石なども使った「枯山水」が様式化されており龍安寺や大徳寺などが有名である。
また、乱で収入が途絶えた京都の公家や僧侶などは地方に行った守護大名などを頼って移住するものも多く、百姓による自治組織「惣村」の成立に伴う商業発展もあり、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌などの室町文化は全国の民衆に広まることとなった。
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絵画では明治時代まで受け継がれることとなる狩野派の始祖で幕府の御用絵師も務めた狩野正信や、水墨画と伝統的な大和絵の融合を図った土佐派の始祖である土佐光信などの大和絵の流派の始祖が活躍した。
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他にも中国地方の有力大名 大内氏の保護を受けた後に明に渡って中国画に学び浙派の影響を受けながら、中国の風景の写生につとめ日本独自の水墨画を確立した世界的にも著名な画僧である雪舟が活躍し、山水画や花鳥画、人物画を残し、『天橋立図』『秋冬山水図』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』は国宝となっていて、他にも雪村などが活躍した。
他、僧侶である村田珠光が豪華な茶の湯ではない禅宗の思想を入れた「わび茶」つまり現在の茶道を確立し、他にも香道や華道、金属加工、漆器なども行われた。
戦国時代においては越前の朝倉氏や駿河の今川氏、周防の大内氏などは美術家の重要なパトロンとなり、雪舟も大内氏の庇護下で活躍した。ちなみに大名の多くはこの時期に教養として儒教を学ぶようになり、地方領主達も計算や読み書きを学んでおり、戦国時代は意外にも文化が発展した時期だったといえるかもしれない。