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【狂気の家畜化】 『ジョーカー』トッド・フィリップス監督

公開当時のエッセイですが、『ジョーカー』の続編が公開中とのことで、蔵出しです。
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『ジョーカー』、初見の口当たりはそんなに悪くない映画であったが、
その後の変なバブル現象の居心地が悪かったので口直しにマーティン・スコセッシ監督『タクシー・ドライバー』を改めて観た。

久々に再会したトラヴィス先生、清々しいほどに「いきなり」狂っていた。

トラヴィス・ビックル先生

「ベトナム戦争で何かあった」感はほんの少しだけ漂わせるが、
基本的に純粋にイカレテいるのである。

例のポルノ映画館でのデートのシーンも、先生は全く悪気が無いと思っており、怒ったベッツィに逆に怒り返す始末だ。

完全なる狂人のくせに、児童買春するアイリス相手に説教し始めたりするし(オマエが言うなよ!と言う話だ)。

44マグナムも「偶然たまたまその言葉が耳に残った」だけであり、映画オタクさんがいろんな意味づけしたい気持ちは分かるが、狂人のことは狂人本人にも分からないものなのだ。

と、久々に観た『タクシー・ドライバー』の素晴らしさを語っているうちに終わりそうだが、今日は『ジョーカー』である。

『ジョーカー』ことを考えているうちに一言で片が付いてしまった。

「狂気の家畜化」

である。

「幼少期のトラウマ」や「精神の病気」を抱え、そして「家庭環境に問題」のある人間=「ロクな人間ではない」という結び付けは、実に紋切り型の「差別的な価値観」と言えよう。

ジョーカーにおいて、
「狂気」=「幼少期のトラウマ」+「精神の病気」+「家庭環境に問題」×「トリガーとなる事件」
という極めて単純な公式で話が進んで、そして終わる。

「狂気」を公式化することで、その「得体のしれない怖いもの」を「理解した」というお話になるわけだ。

「すべての物事には科学的・合理的な理由がある」という近代主義である。

つまり、ジョーカーは、一見「コッチ側」に見せかけて、
その実「アッチ側」の紋切り型の抑圧に満ちた構造を持っているのだ。

「狂気」などという得体のしれないものは、合理的な意味付けをして毒を抜いて牙を抜いて檻に入れて安全な観賞用にしましょう、ということである。

そんな「家畜化された狂気」を見せて、「ほら、我々は多様性を許容していますよ」というポーズを示すプロパガンダの臭いが漂ってくるのだ。

このような、
「危ない人間は、生まれ育った環境に問題がある」
というカテゴライズは極めて危険な要素を持っている。

例えば「ピカピカのスーパー・エリート一家から生まれた狂気」はどう解釈するのだろうか?

※人間の「心の闇」の無限宇宙については、名著『東電OL殺人事件』を是非参照していただきたい。

名著・『東電OL殺人事件』佐野真一

「ジョーカー・バブル」には、「コッチ側」の我々が警戒すべきものがたくさん添加されている。

同じ構造を持つ映画で『ボヘミアン・ラプソディ』もそうだが、
「ゲイ」で「移民」だから「天才!」という「意味づけ強迫観念」が世の中に蔓延しているようだ。

「意味を添加しないと飲み込めない」人々が増えているようである。

やはり「無添加」で「シンプルに頭おかしい」という映画の方が本質的に「健康」だと思う、タクシー・ドライバーとか地獄の黙示録のように。

登場人物全員がイカレている映画『地獄の黙示録』


人間というもの、そう簡単に「分かった」気になられても困りものである。

やはり、「人間が一番恐ろしい」。

完。






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