【とんでもない映画を観た!】 『二十四の瞳』木下恵介監督。
メディアが選ぶオールタイムベスト日本映画のベスト10に必ずランクインする映画『二十四の瞳』をやっと観た。
「高峰秀子生誕100年」記念上映が沖縄までやって来たのだ。
さて、
まずは言い訳から始めたい。
私はハードコア黒澤明主義者で、1954年の雑誌『キネマ旬報』の選ぶベスト映画で『七人の侍』を押さえ『二十四の瞳』が第一位を獲得した歴史がどうにも気に入らなかった。
そして、
「どうせ子供を使ったお涙頂戴ストーリーだろ」
と、勝手に偏見を持っていたのである。
そんなタイミングで沖縄はかの桜坂劇場で『二十四の瞳』の上映があるという。
沖縄ではまともに名作クラシック映画を観る機会が無いので、長年の偏見をこの目で確認するためには良い機会だとばかりに、土曜日の朝っぱらからグランハイアット・ホテルのワキをすり抜けて桜坂劇場へと到着した。
私は「まあ、観てやるかー」と極めて低いテンションで、この古ぼけた映画館の古ぼけたシアターの最前列二番目に腰掛けた。
映画が始まった。
瀬戸内の静かな海を背景に、うら若き女性がチャリンコで疾走する。
瀬戸内の小豆島の自然の中で、分教場に赴任した新任の高峰秀子先生と一年生12人がただひたすら楽しく歌いまくる。
まるで時間が止まった桃源郷のように、来る日も来る日も楽しく歌いまくる。
そして先生がひょんなきっかけで怪我をする。
そこへ子供たちだけで遠くにある先生の家にお見舞いに向かう。
なんていう、プチの中のプチな起伏があるのだが、そのまま大事に至らず平穏に着地する。
結局、その怪我がきっかけで先生は本校へ戻る。
そして数年ぶりに本校へ移動してきた12人と再開して、また歌いまくる。
え?この感じでずっと行くわけ?
私は不安になって来た。
何のスリルもサスペンスもクライマックスも無いのだ。
このままずっとハッピーなのか?
さて、
子供たちも大きくなると「ブルース」が忍び寄ってくる。
母が死んだり、妹が死んだり、家事をやるために学校に来れなかったり、、、
その子供を前に、先生は泣く。
丁稚奉公のために学校辞めたり、そして先生も泣く。
桃源郷に少しづつブルースが侵食してくるのである。
さらに、子供が大きくなると同時に「戦争」の影が忍び寄ってくる。
この時代の「アカ狩り」の波が先生にも押し寄せて来るが、特に大事には至らない。
ここでもやはりスリルやサスペンスやクライマックスは起きない。
「アカ狩り」を警告する校長や先生の「自由な」言葉を悪意を持って広める「インファーマー」も、単に匂わせだけで終わる。
そして「アカ狩りデマ」にウンザリして先生は先生を辞めちゃうのだが、
貧乏で身体の調子が悪い教え子の家を訪れて、一緒に泣く。
そしていよいよ戦争は本格化してくる。
教え子たちも青年になり、赤札で兵隊に取られる。
その別れに先生は泣く。
先生の旦那も兵隊に取られ、子供三人と暮らす事になる。
そして、ひょんな事故で先生の娘が死に、先生は泣く。
戦争は終盤になり、教え子も旦那も戦死する。
そして先生は泣く。
片っ端から死ぬ、そして先生はひたすら泣く。
こんな映画は初めてである。
死ぬとか泣くとか、もっと勿体ぶらないのか!?
死と泣の合間に、静かな瀬戸内の海がただただ挿入されるだけである。
もちろんコチラは、その死には全く感情移入が沸かないし、共感はゼロである。
ただ淡々と死んでいくのみだ。
戦争が終わり、先生は最初の分校へと戻ることとなり、生き残った教え子が集まって先生のために謝恩会を開く。
そこで、
また全員で泣く。
その背景には瀬戸内の海が静かに輝いている。
死や不幸を前に先生はひたすら泣く。
先生とみんなで2時間半泣いてるだけ、
という物凄い映画であった。
スリルもサスペンスもクライマックスもメッセージすらも無い。
時代と運命に人間が翻弄され、
それに対してただ泣く。
「とんでもない映画を観た!」としか言えないのである。
そしてラスト、
かつての教え子の子供たちらが分校の生徒になる。
その子供たちを前にして、先生は泣く。
ただ泣く。
そして、
一番最初の、島の街道をチャリで走るシーンが再び繰り返えされる。
終。
客電が点いて、気がついたら私も服まで涙で濡れていた。
「静かな反戦映画」とWikipediaには書かれていたが、そんな瑣末なことじゃない。
じゃあ何なんだ!?
と訊かれても、
私もただ泣いているだけである。