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No.3 「バカの壁」~個性は必要なのか~フジえもん
こんばんは、フジえもんです。
週に一度お届けする読書会マガジン。
ここは読書で得た知見を皆さんと共有する場です。
今週は、養老孟司さん著作の「バカの壁」を読みました。
得た知見は「個性は必要なのか」です。
今日は独り言風に書いてみます。
P.S.書いてみたらかなり攻撃的になったので、途中で嫌悪感を覚えた方は即刻他の記事に移動してください。あくまでも私個人の勝手な考え、普段から感じたことをぶつぶつと書いているだけにすぎませんので。
昨今、様々な価値観、思想が世に広まりつつある。
性や、障害、宗教など。
それを個性として認めようというような空気がある。
果たしてそれはほんとうに個性として受け入れられたと言えるのか。
単に情報として見たふり、聞いたふりをしているのではないのか?
単にバカが「わかった!」と言っているだけにすぎないのでは?
「共通了解」という表面的理解のみにとどまっているにすぎない。
「聞いてすぐに理解できる」ようなことというのはそれが単純かつ簡単である或いは自分にとってどうでもいいことだと認識しているということを言葉にしてそこらに散らかしているだけではないのか。
実際、その中身は当事者或いは、似た背景を持っている人しか知らないことだ。個性として言語化できるのは彼らだけだ。
「それを個性である」と一般人はおろか研究者でさえも言えるだけの情報を持ち合わせていない。多くの人間がそうだ。
いや、それに対して反応をもった人は少なからず興味を持ち、話を聞く姿勢はあるということだろう。
理解するための素質はある。わかったと言えるほどの知識は前提として持っているのだろう。
マニュアル化が進む社会の中で、「個性」が世間の目に触れるとすぐに排除される。ゴミのように。或いは虫のように。
なのに、なぜ社会は「個性を大事にしよう」「個性を尊重しよう」などと言えるのか。
「排除する」ことが「個性を認める」ことで、それを是とするのならば、「個性が無いこと」は非なのだろう。
即座に矛盾するような、安易に個性などと使うような空気は一体何なのか。
「他人の個性を認められる」自分に酔いしれている。
「大衆の意見と自分の意見が同じ」だという同調行動に快感を覚えている。
近頃、そんな空気があるようだ。また、自分もその風潮がある。
なぜだろう。自分には関係ないからいいや、興味ないからいいやと反応係数が0になっているからだろうか。係数が0ならどんな情報を与えても何も返ってこない。無興味無関心である。
情報を簡単に得られるようになり、情報処理が効率化される一方で、本当に大事なことを見失っていないだろうか。
果たして今のままで多様性社会と言われる社会が世界でいやその前に日本で実現できるのか。ただ情報がごみのように散乱するだけなら意味がない。情報を知見として捉えられないのならそもそも人間としてある意味がない。
以上。フジえもんでした。いつもとはだいぶ違うので驚いた方もいらしたでしょうね。まあ、今週はこんな感じでした。
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