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安部公房「牧草」論——実存主義にみる統合失調症の扱い——


安部公房について

ノーベル賞にもっとも近かったと言われた戦後文学の巨匠・安部公房

国語の教科書では「砂の女」や「赤い繭」が収録されている。

没後30年を経てもなお根強い人気を誇る彼の作品は、しかし難解だ

短編の多い彼の作品はどれも哲学・思想が凝縮されており、溺れそうになる

作品を理解するためには補助線が必要だ。彼の来歴や思想の背景(特に実存主義やシュールレアリスムの思潮)、改稿歴、数多の先行研究etc…..

しかし「牧草」については先行研究がほとんど見当たらない。

CiniiResearch、国文研アーカイブ、国立国会図書館あたりを調べたけどヒットしたのは1件だけでした。

その論文は戦後のGHQの検閲に焦点を当てた「牧草」改稿前後の比較がメインで内容にまでは踏み込んでいません

ゆえに自分なりに「牧草」を解釈してみようと思います。


あらすじ

ある精神科医がちょっとした過失によって妻を殺してしまう物語です。
主人公の「私」は十数年前に父親と住んでいた住居を見てみたいと足を伸ばすと、今はそこに精神科医の町医者が住んでいた。彼に誘われるがままに家に案内されるが、どうも居心地が悪くて所要を理由に退散する。
数年後彼から手紙が届く。そこには、精神病になった妻が薬の誤飲による過剰摂取をしてしまったが、助ける意欲が湧かずに彼女が死にゆくままにした、という告白がなされていた。
「私」は手紙を受け取った直後慌ててかの家に訪れる。しかし家の近くにある牧草に足を踏み入れたとき、そこには陰に隠れて猟銃を握りしめている彼の姿が……。彼がその猟銃で狙っていたのは、警官かあるいは「私」か、それとも彼自信なのか。


問題の所在:牧草の本質と実存とは?

本作が実存をテーマにしていることは次の一文からわかる。

私がしたように君も、いま流行の言葉でいえば〈実存〉から、彼(医者)を引出すことができるだろう。

実存主義とは何か?

ここで言われる「実存」とはこの時代に流行していた実存主義を背景にもっている。
そもそも存在するものには「実存」と「本質」がある。実存とはそこにある「モノ」自体のことで、本質とはそれがもつ役割のことだと考えるとよい。
例えばナイフと人間を対比してみよう。ナイフはそれが現実存在していると同時に、物を切る道具としての本質が備わっている。
一方で人間は生まれた直後から役割が決まっているわけではない(実存は本質に先立つ)。これがまさに、人間は自由の刑に処されているの所以だ。

自由の刑とは言いえて妙で、まさに自由ということはすべてのことに己が責任を持たなくてはならないのだ。今の環境も結果もすべて自分の行動の帰結であるという無限の責任が生じる。

だからこそ、我々は政治や文化に積極的に参加する必要があるのだ。なぜなら「環境のせい」とはあり得ず、今ある文字通りすべてのことが人間の行動の結果なのだから。
だからこそ実存主義者はアンガージュマン(社会参加)の必要性を訴えているのである。

医者が射殺そうとしたのは…?

物語の最後は下手なホラー小説よりもゾッとする終わり方である。なぜならば「私」が彼の手紙によっておびき出されたように向かっていった牧草では、猟銃を抱えて待ち構えていたのだから。

それまで気づかなかったが、すぐ二十メートルも離れていない窪みの中に、目深に防止を被り、膝に猟銃をかかえ、黒い外套の衿を立てて坐っている男は……[中略] 彼がああして待ち受けていたのは、一体誰だったのだろう……私か……それとも警官……あるいは、あんがい彼自身だったのか

妻が薬物過剰摂取で死ぬのを放っておいた彼は、手紙で「私」をおびき寄せて殺そうとしたのか。だとしたら何故?

そもそもとして、彼の行動は異常なのである。来るか来ないかも分からない誰かを待ち受けて猟銃を構える。正常な人間の行動ではない。

医者=統合失調症?

結論を先に言おう。彼は統合失調症になってしまったのだ。

彼の行動を見るに、精神科医たる彼自身が精神病に侵されたと考えるのが自然であるし、その萌芽はすでにあったのだ。

例えば妻である。彼女は実は統合失調症に侵されており正常な態度を取れないでいた。薬物を過剰摂取してしまったのもいっときの錯乱状態によるものだった。精神科医として、統合失調症の妻をもつ夫としてつねに”異常者”と一緒に居るのだから彼自身が変になってしまったとしてもおかしくはない。

そのことを自覚している描写を二つ、取り上げる。

先生はよして下さい。患者以外の人から先生と言われると、なんだか侮辱されたような気がして、急に偏屈な人間になってしまうのです

(町の人からは)私が変人で通っているものですから……

このように彼自身が「変人」であることに自覚的なだけでない。実は作中の冒頭で彼の神経質な様子はすでに記されている。

人間が有用でありうるのは、大きな機能のほんの一局部的存在であることを熱望する意欲のことだと思うのです。しかるに私みたいな人間はそれができないで、しきりと全体的なモデルを自分の中に作り上げようとする。だからいつまでたっても本当の意味で世間と出会うことができないのです

上記の文章には、実存主義と統合失調症の両側面からの考察が必要になる。まずは統合失調症というファクターから見てみよう。

「世間と出会うことができない」という表現はまさに統合失調症の症状にドンピシャなのだ。医学の専門家が編集・査読を行っているMSDマニュアルで統合失調症はこのように記述される。

統合失調症は精神病症状を特徴とする病気ですが、そのような症状としては、妄想、幻覚、支離滅裂な思考や発言、奇妙な行動や不適切な行動などがあります。精神病症状には、現実との接触の喪失がみられます

MSDマニュアル「統合失調症」

彼は物事を全体で捉えようとする。そうすると細部の意味を捉えることができずに、「意味」を組織できなくなってしまう。

実はここが、まさに実存主義と統合失調症が交錯する場所なのだ

ルビンの壺と実存主義

実存主義に重要なワードで、「志向性」と「定立」がある。

志向性とは、意識は”存在するもの”に向かっているという意味だ。意識は常に、意識する「何か」に向けられている。
定立とは、確信することだ。それが存在していると確実に認識している状態を指す。

要約すると、我々が意識できるのは、存在していると確信しているものだけだということ。

ではどうすれば、人は定立するものを意識することができるのだろうか。
それは全体性を分けて切り分ける思想が必要になってくるのです。

ここから実存主義と統合失調症が交錯するクライマックスです。

サルトルはよくゲシュタルト心理学で用いられる「図と地」について実存主義の比喩に用いています。

ルビンの壺を皆さんご存知でしょうか。

ルビンの壺(引用コトバンク)

見たことがある人は多いでしょう。
黒色に着目すれば二人の人間の横顔が、白色に注目すれば壺が浮き上がる騙し絵です。
これを「図と地」に対応させてみましょう。
我々がそこに壺を見出すとき、一つの絵(全体)のうち黒色を図として、白色を「地」としているわけです。顔を見出すときはその逆ですね。

つまり、この絵を全体のままぼんやり見ているだけでは何も意味をなさないのです。この全体を切り分け、一つに注目する(つまり全体から定立する何かに向けて意識の志向性を向ける)ことでしか、存在を認識できない。

サルトルがゲシュタルト心理学を用いて主張したかったのは、世界に存在する「モノ」はそのままでは、あのだまし絵のように意味をなしていない。そこに意味(本質)を与えるのが、意識の志向性だということ。

世界は最初から意味を与えられているのではない。
世界に意味を与えているのは人間の意識である(量子力学の思考実験にある、「誰も観測していないとき月は存在していない」というテーゼと似ていますね)。
故に本質が最初からあるのではなく、人間の実存(と意識)があってはじめてモノに本質が与えられる(=実存は本質に先立つ!)

差別主義者・安部公房の発見

統合失調症患者不要論

このことを踏まえてもう一度医者の言説を振り返りましょう。

人間が有用でありうるのは、大きな機能のほんの一局部的存在であることを熱望する意欲のことだと思うのです。しかるに私みたいな人間はそれができないで、しきりと全体的なモデルを自分の中に作り上げようとする。だからいつまでたっても本当の意味で世間と出会うことができないのです

太線部分に注目してください。ここに医者の言説とゲシュタルト心理学を接続させましょう。

彼は物事を全体でとらえようとする=全体の「図と地」が未分化
⏬️
彼は世界に意味を割り当てられない
⏬️
世界から隔絶されてしまう(世間と出会えない)
⏬️
統合失調症の症状(現実との接触の喪失)


上記のフローチャートに、実存主義をさらに接続させます。

実存主義の趣旨は、全体性から地と図を分化させて意味を見出すことでした。それを可能にするのが人間の実存である。

であれば全体性から本質(意味)を切り取ることができない医者はまさに、実存の危機にさらされているのです。

医者はこのようにも告白していました。

人間が有用でありうるのは、大きな機能のほんの一局部的存在であることを熱望する意欲のことだと思うのです。

「有用」というワード。まさに実存と対比させられていた本質(役割・意味)の部分です(本記事「実存主義とはなにか?」を参照)。

これでようやく医者の主張が明確になりました。

人間は全体から一部を切り取って意味をだすことで有用な存在になれるのだ。つまり普通の人間であれば、実存が本質に先立っている。
しかし私は、全体を切り分けることができずそのまま見てしまうのだ。
だから私は世間から切り離されているので、社会では有用ではない(=アンガージュマンできない!)

私はここで驚くべき構造を捉えてしまいました。


もし今までの仮説が正しいのなら……。
医者が統合失調症であり、医者が世間で不要な存在であるというのなら……

統合失調症患者は世間にアンガージュマンできない不要な存在である

という主張を切り出す事ができてしまうのです。
これを安部公房の思想と捉えようとは思いません。しかしテクスト論に立てば、このように驚くべき差別をあぶり出すことができるのです。

本作は最後、「私」が医者を見捨てるように終わります。

いずれにしても勝手に待つがいい……そうして、いつまでも、永遠にでも待ち続けるがいい……待つことを選んだ以上、いまさら不平など言えた義理ではないはずだ

「私」の態度はひどく冷徹です。
統合失調症患者のアンガージュマンの不可能性が本作の構造であったにもかかわらず、そんな彼をも「自由の刑」に処しているのだから。

「自由の刑」。復習するとそれは、すべての行動と結果にはその人が全責任を負わなければならないという実存主義の主張。それを実存の不可能性を象徴する統合失調症患者にも求めているのである。

タイトル回収「牧草」

最後にタイトル回収といこう。

牧草を実存主義で考えるならば、即自物だ。「家畜の餌」という本質が先立っている。
家畜もまた即自物だ。「人間の食料」という本質が先立っている。

しかし本作における牧草は、役割さえ与えられていない。
「私」は牧草にこのような感情を抱いている。

そこは朽ちはてた柵に囲まれてはいるが、かつて一度も家畜が草をはんだ事がないと言われる牧草畠だ。なんという愚かな、悲しい夢だろうか。

ここには役割(本質)さえも与えられていない牧草への哀れみが現れている。そこに家畜はおらず、故に人間との関わりが完全に途絶えている。

まさにあの医者のように「世間と出会うことができない」ではないか!

安部公房が眼差す「牧草」には実存も本質もあらず、ただ人間(意識)の忘却の彼方の混沌の暗闇にあるだけ、ただそれだけなのである。

そしてそんな場所で医者(統合失調症患者)、つまり人間としての存在意義を失った(実存が本質に先立たない)彼は…牧草の中で決して世間と出会わず忘れられていくのである。


*本文は『安部公房全作品1』(新潮社)によります。
*実存主義については下記のYouTubeを大いに参考にしました(https://youtu.be/03gUGjcBUUk?si=zKGX8jftgOVdlw5m