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怒っていたアイツが正しかったのかもしれない


2024年12月10日(火)朝の6:00になりました。

10冊だけの古本屋さん、本日6冊発送します。補充は週末に。

どうも、高倉大希です。




小学生のころ、ドッジボールが大嫌いでした。

なぜなら、怒りはじめるヤツが必ずひとりはいるからです。


誰かが怒りはじめたせいで、ほかの誰かが萎縮して。

ほかの誰かが萎縮したせいで、またほかの誰かが怒りはじめて。


一体全体、これは誰のための何の時間なんだ?

ずっと、そう思っていました。


怒っているときは、だれでも頭が悪くなるのです。怒っているときに下す判断は、まず、間違っていると考えた方がよいでしょう。

安達裕哉(2023)「頭のいい人が話す前に考えていること」ダイヤモンド社


6年ほど続けていたサッカーを、高校ではやらないと決めた理由も同じでした。

とてもおもしろいスポーツなのに、絶対に怒るヤツがいるのです。


勝つために怒りが必要だというのなら、まだわからなくはないけれど。

怒ってプレーが荒くなっても、よいことなんてひとつたりともありゃしません。


それなのに、チームメイトも監督もみんなぷんすか怒ります。

怒りが生まれる団体競技に、嫌気がさしてしまったわけです。


髪型についてあれこれ言えば言うほど、ますます子どもたちは髪型が気になってしまうというパラドックスが起こるからです。(中略)つまり、問題は「大人が創り出している」のです。大人がそれを「問題だ」と言わなかったらそらはたいして問題にならない。しかし「問題だ」と言った時から、それが問題になるのです。

工藤勇一(2024)「校長の力」中央公論新社


どうやら、怒りたくて仕方がない人が一定数いるっぽい。

歳を重ねるにつれて、気づいたことのひとつです。


まったく理解はできないけれど、怒りたい人というのが間違いなく存在します。

ところが日常生活では、なかなか思い切って怒れる場面がありません。


怒りたいのに、怒れない。

そんな不満が、ストレスに繋がっているパターンも多いのだろうなと思うのです。


誰も彼もが、怒りたくて怒りたくて仕方がない。けれど心のどこかで「怒らないほうがいいのでは」と思ったりもしている。自分の気持にこうした矛盾があるのですが、そのことに気づいていない。それで「私は怒りたくない」などと嘘をつく羽目になるのです。

アルボムッレ・スマナサーラ(2006)「怒らないこと」株式会社サンガ


そう考えると、ドッジやサッカーは「怒ってもよい場」だったのかもしれません。

試合という形式の中で、怒りを発散させるわけです。


スポーツが、怒りの受け皿として機能しているのではないかという仮説です。

暴力ではなくスポーツで発散してもらった方が、間違いなく平和です。


いずれにせよ、怒りから離れるという選択は間違っていなかったと思います。

ただ団体競技においては、怒っていたアイツの方が正しかったのかもしれません。






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高倉大希
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