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福音 浩一郎(ふくね こういちろう)
2024年12月10日 11:14
味覚障害を克服しました。といっても、かれこれ十二年も前の話で、もちろんコロナとは関係なく、わたしの場合、心からきた症状です。こんなとき日記というのは便利なもので、ひもといてみるとそこに、押しつぶされそうなかつての自分が見えてきます。当時わたしは、ぷつっと糸が切れるようにいつ依頼がとだえるとも知れない、イラストレーターの仕事だけで生きるのがこわくて、郵便局でアルバイトをしていました。暗い廊下
2024年7月19日 14:23
ごめんね、聖夜。 せっかく見つけたのに、こんなことになっちゃって。 でも、ぼくはあの時、走らなきゃと、それしか頭になかった。 走ったらどうなるかって、そういうあとさき、考えられなかった。 ぼくずっと、まるで刺繡を裏地からのぞいてるみたいだったの。 ばらばらな色の何百何千という糸がこんがらがって、なにがなんだか、わからなかったの。 ものごとのつながりも境目もあいまいになって、あわ雪のよ
2022年9月7日 10:54
つぶれるいちごをぼくは見た。 ふと、なまあたたかくてしめっぽかった、あの夜がよみがえる。 でもいま、いちごを踏みつぶしたのは、父ちゃんの足ではなく、車いすの車輪なのだ。 八百屋の店さきで、みかんでもりんごでもなく、いちごにぼくがいざなわれ、ひと山二百円のザルから赤い粒をつまみあげた時のことだった。「お客さん」 店のあんちゃんが愛想笑いで呼びかける。「さわったら買ってってよ」とでも言っ
2022年6月30日 10:36
俺の父は教師だった。春樹という、いくらか頭の弱かったらしいかつての教え子から、鉛筆書きの年賀状が毎年届く。父は三年前、急に旅立ってしまったが――おととしもきたし、去年もきた。先生あけましておめでとうはみだすほど大きな字で書いてある。あとは、にわの木にみかんをさしたら、めじろがきて食べましたとか、青いながれ星においのりしましたとか。先生ごきげんようそれがいつ
2022年2月16日 13:30
鏡に黒いビニールをはりました。荒れはてた部屋をうつす鏡に、これはお前の心の中さと、冷たく言われた気がしたからです。しめった万年床。ぬぎすてたくつ下。さめきったカップ麺。おまけにへしゃげたあきカンだらけ。かたむきそうなアパートの一階で、昼も夜も、酔いどれたわたしの頭を過去が堂々めぐりします。いがみあい、ののしりあい、ゆるせなかった男との生活は、怒りにかられた離婚への道のりでした。