星をひろう
鏡に黒いビニールをはりました。
荒れはてた部屋をうつす鏡に、これはお前の心の中さと、冷たく言われた気がしたからです。
しめった万年床。ぬぎすてたくつ下。さめきったカップ麺。おまけにへしゃげたあきカンだらけ。
かたむきそうなアパートの一階で、昼も夜も、酔いどれたわたしの頭を過去が堂々めぐりします。
いがみあい、ののしりあい、ゆるせなかった男との生活は、怒りにかられた離婚への道のりでした。
ちくしょう!
飲みほしたビールのカンを投げつけたら、なにもかもつっこんだ棚から、ばさりと本が一冊、ごみの上に落ちました。
愛の天使をまねく本――
なにが愛の天使だよ。まねいたってきやしない。
わたしはむしゃくしゃしてふとんにころがり、
きてみろ天使!
と、やぶれかぶれにわめきました。
ちょうどそのとき、線香花火の玉のような星のしずくが、窓の外の夜空を流れるのが見えました。
宇宙はなにを落としていったの?
まぼろしにしては、あまりにきれいなまぼろしでした。
夜もふけて日づけのかわったころだと思います。
おもてがさわがしくなりました。
男の子たちがはしゃいでいます。
声がわりしたてのさざめきにまじるのは、子犬の鳴き声なのかしら。
わたしは眠るに眠れません。
こらえ性もあらばこそ、玄関のドアを押しひろげ、やかましい!と一喝しました。
悪ガキどもは笑いながら走り去り、街灯が水たまりを照らします。
きらきら光る水につかっているのは、もはや声をあげる力もなく、ぐったりした子犬です。
つついてみると、かすかに足を動かし、くうんと息をもらしました。
こんなのにかかわっちゃ、たいへん――
わたしはドアをしめ心をとざし、ふとんにもぐりこみました。
どうせだれかが助ける――
そう思おうとして目をつむっても、勝手に目はあき、暗い天井を見つめてしまいます。
くうん
心臓がどきどきして、とうとうわたしは飛び起きました。
子犬はまだ息があります。
ともかくわたしは、そのぬれたからだをひざの上に乗せました。
そこへ、からころと下駄を鳴らし、犬と散歩する若い男女が通りかかりました。
「動物病院しらない? 夜もやってるとこ」
わたしの口から、とっさに出たことばです。
タクシーを飛ばし、教えられた動物病院へかけこみました。
「脳しんとうですな。右前足を骨折してます」
獣医さんは手なれたものです。
処置のあいだ、ひと気のない待合室にすわり、わたしは問診票を書きました。
ボールペンがとまったのは、ペットの名前をしるす欄です。
どうしよう、とこまるわたしに、子どもの声がささやきました。
「名なしさんはかわいそうよ」
わたしはほとんど飛びあがりました。
だれもいないはずなのに、そばに子どもが立っています。
白い服をひらめかせ、男の子なのか女の子なのか、よくわからない子どもです。
「神さまはね、お空の星みんなに名前をつけてくださるの。そうしてひとつひとつ、その名前を呼んでくださるのよ」
ふしぎな子は花のように笑いました。
星かあ……よし決まり!
わたしは「星」と大きな字を書きました。
ありがとう、と顔をあげると、もうそこに子どもの姿はありません。
どこから舞いこんだのか、ひとひらの花びらが床の上にゆれるだけで――
ほどなく処置が終り、わたしの胸に「星」が還ってきました。
星は足のギブスをなめた舌で、わたしの顔をなめました。目が合うと、うるんだ瞳はそれこそ星のようでした。一瞬、わたしの中になにか清いものが、ふっとひかった気がします。星はわたしの腕に顔をうずめてくれました。
帰りしな、「あ、ちょっと」と看護婦さんはわたしを呼びとめ、笑みをふくんでこう言いました。
「お部屋をかたづけてくださいね」
犬がつまづくとあぶないから、というのですが、まるで見すかされたようでした。
そうやって、わたしと星の日々は始まったのです。
わたしはあきカンを捨て、ふとんをたたみ、掃除機をかけました。
かたづいた部屋に窓から春風がふきこみます。
裏のお寺のさくらは花ざかり。
うまれてはじめて美しいものを見たような心地がして、胸がきゅんとなりました。そしてその胸には抱きしめた星が眠っているのです。
あんたって、あったかいのね――
わたしはそっと、星の小さなからだをなでました。
星はわたしのそばを離れません。
ギブスの足をちょこっとあげて、だっこをねだります。
朝な夕な、わたしは星とあそび、星の世話に自分をささげました。
だれかのためにごはんをつくる――遠のいていたよろこびが、毎日、わたしのもとへやってきました。
ささみをゆで、ほぐし、牛乳にひたし、「うまいか?」ときくと、星はうれしそうな目をわたしに向けます。
おなかがいっぱいになった星は、寝そべるわたしの背なかに乗り、しっぽをふります。
そのこころよい重みは、わたしを変えてゆきました。
知らなかったまるい気持が、とめどなくあふれます。
星をいとおしく思えば思うほど、星の光はわたしの心にさしこみ、過去を覆う闇は薄らぎました。
もう、ゆるそう。
あれもこれもゆるして手ばなしたとき、わたしの心は自由でした。
ビニールをはがした鏡のむこうに、本当のわたしが、おだやかな笑みをこぼしていました。
ギブスのはずれた夜、身軽になった星は、走りたくて、とびたくて、しかたがなかったのです。
部屋じゅうをかけまわり、さもたのしそうでした。
わたしはお祝いに牛すじをとろとろに煮てやろうと思いつき、星をのこしたまま、スーパーへでかけました。
道すがら、夜風に舞う花びらがわたしの顔をかすめました。
窓をしめわすれた気がしたのは、その刹那です。
空巣に何をぬすまれてもかまわない。でも星がどこかへ行ってしまったら……
わたしは走りました。
星のもとへ走りました。
かどをまがってアパートが見えたとき、わたしはことばにならない叫びを叫びました。
あの少年たちが星を踏みつけていたからです。
わたしの声に驚き、彼らはいっせいに逃げました。
星は少しも動きません。
ドアの前で、星は死んでいました。
ここでわたしを待ってたの?――
わたしはしゃがみ、星を抱きあげました。
ごめんね――
何年ぶりかの涙が、ぽろぽろと落ちました。
星の上に。わたしの心に。
思いが波紋を描いてひろがります。
あの夜わたしは星をひろった?
あべこべね。
ひろわれたのは、わたしのほう。
どこまでも落ちてゆきそうだったわたしのほう。
そのわたしを受けとめてくれた、星の世界のうちでいちばんいとおしい星。
やさしい思いばかり湧きでる泉へわたしをみちびいた星。
そしていま、銀河のかなたへ旅立ったひとつの星――
ありがとう
好きよ
いつまでも――
わたしの星
わたしの光
くうん
星の鳴き声が心に降りました。
愛する天使の声でした。
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