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さよなら郵便局  ~オネエゆうメイトの影あらば光~

味覚障害を克服しました。
といっても、かれこれ十二年も前の話で、もちろんコロナとは関係なく、わたしの場合、心からきた症状です。
こんなとき日記というのは便利なもので、ひもといてみるとそこに、押しつぶされそうなかつての自分が見えてきます。
当時わたしは、ぷつっと糸が切れるようにいつ依頼がとだえるとも知れない、イラストレーターの仕事だけで生きるのがこわくて、郵便局でアルバイトをしていました。
暗い廊下。
鉄の扉をあけると顔にあたる、むっとする空気。
何百人もの人間をつめこんだコンクリートの箱の中で、週五日二十時間、残業があればもっと、わたしは息苦しい思いで過ごしました。男ばかりの夜勤とはあべこべに、日勤だったわたしは、おばちゃんだらけの職場に放りこまれ、孤立の袋小路で窒息しかかっていたのです。
郵便局には郵便部と集配営業部があり、わたしが働いたのは一階の郵便部。
おばちゃんたちはそろいもそろって、支給された青いペラペラのエプロン姿で、わたしを待ちかまえていました。
「いっとくけど、ここの仕事あまくないから」
郵便局の仕事は、押しよせる郵便物とのたたかいです。
保険や税金の納付書は段ボール山積みで到着します。ずっしり重い通販カタログは二段式の大型台車からあふれ出します。
それを持ちあげ、積みこみ、運び、機械にかけ、右へ左へかけずりまわる日々――ひと月して鏡にうつった自分は、あれ?と声が出るほどやせていました。
 
そのころになって気づいたことがあります。
おなじおばちゃんでありながら、青エプロン集団から離れたところで、いつもひとりで立ち働く星野さんというひとがいました。
「このエプロンは自前なのよ」
星野さんのエプロンは灰色です。
「あちらといっしょの着たくないといったらわるいけど……」
星野さんが一瞬目を向けたさきで、青エプロンたちは輪になって、動かなくてすむ郵便物の開束作業をしながら、笑い声を立てています。
わたしは星野さんを手伝いました。うなりをあげる区分機から郵便物を引きぬく、いちばんきつい作業です。星野さんがひたいの汗をぬぐう拍子に、半分白くなった髪がゆれ、ちらりと補聴器が見えました。わたしは、気づいてから胸にわだかまっていたことを、思いきって星野さんにきいてみました。
「力仕事、押しつけられてませんか?」
問いには答えず、星野さんが笑みをつくった時でした。
ガッタン!
けたたましい音が響き、星野さんは耳を押さえてうづくまり、わたしがふりむくと、青エプロンのひとりが立っていました。音の正体は、床にたたきつけられた郵便物のつまったケースです。
「つぎこれ」
足で押しやられたケースが、わたしのかかとにぶつかりました。青エプロンが去っても、補聴器が音を増幅したのか、星野さんは痛そうに耳に手をあて、しゃがんだ姿勢のまま、こちらを見あげて言いました。
「わたしといたら、あなたまでいじめられますよ」
 
まったく、そのとおりでした。
「男でしょ」
あんたがやんなさいよという意味です。
青エプロンたちは、重労働をわたしにおっかぶせるようになりました。
そんな光景を社員のみなさんは見て見ぬふりしています。頻繁な異動で入れかわりの早い正社員よりも、十年二十年と居すわる青エプロン集団のほうが大きい顔をしているという、郵便局特有の雰囲気がありました。
ある日は泣きそうになりながら、ある日は怒りでふるえながら、わたしは言いなりになって働きました。
なんでわたしがこんな目に?
なんでって……おかね……おかねのため――
何百回くりかえしても、それは、あわれな自問自答でした。わたしは自分を売って月日を送り、みじめさは雨のように心にしみてゆきました。
光がさしたのは、星野さんからこう尋ねられた時のことです。
「ウケバライ、知ってる?」
料金受取人払郵便を「受払」と略して呼ぶことすら、わたしは知りませんでした。話をきくと、受払事務の担当アルバイトと星野さんとは口をきく間柄で、そのひとが近いうちに局をやめるというのです。受払はパソコンを使うデスクワークなうえ、その「デスク」は二階のすみっこの平和なスペースにあるというのです。
「志願するなら今よ」
背を押され、わたしはその気になりました。
「でも、星野さんは?」
「わたしなら大丈夫」
もうすぐ満六十五歳の定年退職なの、と星野さんはVサインをつくって笑いました。
 
一週間のひきつぎをへて、わたしは晴れて受払担当になりました。
デスクのわきの窓をあけると、光と風が入ってきます。
パソコンならお茶の子さいさい。はかり、のり、輪ゴム、裁断機。こまごました作業の好きなわたしには、うってつけの仕事です。わからないことが出てきたら、
「なんでもきいてね」
と、やさしく教えてくれるヒカルがいます。
ヒカルは数すくない日勤男子アルバイト。まだ二十代だったわたしと年も近く、社員とおなじ紺色のポロシャツを着て「特殊室」で働いていました。
ピッ、ガチャ――
できたてのIDカードをかざし、ドアをあけます。特殊室はガラス張りで、書留や内容証明郵便など、それこそ特殊な郵便物を取りあつかう一室です。そこへ処理のすんだ受払を運んでゆくと、ヒカルが待っているのです。
「レオ君おつかれー」
ヒカルはわたしを下の名前で呼んでくれます。そのたびにわたしの胸はキュンと高鳴り、ほっぺがポッと燃えました。社員が不在でヒカルとふたりきり――そんなおりには、ひとときのおしゃべりというしあわせを宇宙からめぐんでもらえました。
ヒカルの指がしなやかな動きで作業台をたたいています。からかったら、「無意識に練習しちゃう」と、ヒカルは照れて笑いました。
「養護施設で子どもにピアノ教えるボランティアやってるんだ」
街角ピアノを見つけたらバッハでもビートルズでもひいちゃうこと。ピアノだけでなくフルートもふくこと。いつか施設で無料コンサートをひらきたい夢があること。
「生きるって、おかねばかりじゃないからね」
ヒカルのひとことで、わたしのにごっていた心に、さらさらときれいな水がながれました。
「じゃあねヒカル」
あしたもまた会える――
うちへ帰る途中でも、気がつけばヒカルのことを思っています。
バスの窓から見る街なみもきらきらして、
「わたしも、この街のひとびとに届く郵便の一端をになってるんだわ」
なんて、純な興奮がわいてきます。
受払に移ってよかった――
わたしは羽のようにかろやかになって、局の仕事をつづけました。
 
青エプロンたちは、そんなわたしがおもしろくないようすでした。
わたしが下に降りようものなら、汗の玉の浮いた顔をならべて、にらむような目つきを向けてきました。わたしはろくにあいさつもせず、首からぶらさげたIDカードをこれ見よがしにさわりながら、すずしい顔で青エプロンたちの前を素通りしました。
あなたたちとはちがうのよ――
わたしの中で生まれたうぬぼれが、風船のようにふくらみました。肉体労働から頭脳労働に移ったからって、しょせんはどんぐりの背くらべ。それなのに、わたしは思いあがっていたのです。うぬぼれの風船をパン!と破裂させる頂門の一針が待っているとは、まだ知らずにいたのです。
 
さくらのつぼみに小ぬか雨のふりかかる寒い日でした。
局の暗い階段をあがってゆくと、ちょうどヒカルがおりてきます。
「レオ君、ペンある?」
ヒカルの胸ポケットにいつもなら二本か三本ささっているペンがありません。ペンケースごと忘れちゃってと、こまった顔をしています。わたしはよろこんでペンを貸しました。自分のペンをヒカルが使う――それだけでもう、何時間もしあわせで、受払の仕事のあいだ、わたしはニコニコというよりも、きっとニヤニヤしていたことでしょう。
仕事がかたづき特殊室へゆくと、明るいばかりでガランとして、ヒカルも社員も、だれもそこにいませんでした。目につくものといえば、作業台の上のひときわ大きな国際小包。その手前には、数をそろえた書留がいくつもの小山になって積まれています。
「今日はおしゃべりナシか……」
あきらめて帰ろうとした時でした。真上の蛍光灯を反射して、書留の山と山の谷間あたりで、きらりとひかったものがあります。近づくとそれはまぎれもなく、ヒカルに貸したペンなのでした。
ペンが乗せられたメモ用紙には、
「ペンありがとう」
と、ヒカルの字で書いてあります。
わたしはペンをにぎりしめ、ヒカルから初めてもらう七文字の手紙を残像が浮かぶほど見つめました。そしてたいせつな宝ものとしてカーディガンのポケットにしまい、特殊室をあとにしました。
 
つぎの日も雨ふりでした。
もしかしたら雪になるんじゃないかというので、わたしはそわそわして身が入らず、受払の手を休めては窓の外をうかがっていました。そこへ――
「ちょっときてくれる?」
唐突な声でした。
びっくりしてそっちを向くと、声の主は部長だったので、もういちどびっくりです。
「あの……」
「あとはだれかにやらせるから」
何がなんだかわからないまま、わたしはついてゆきました。足を踏み入れたことのなかった四階。そのどんづまり。ふだんは使わない部屋なのか、かびくさいようなせまいところに、机とイスが置かれています。
「窓がないんですね」
「いいから」
わたしは奥のイスにすわらされました。
ほどなくドアがあき、入ってきたのは知らないおじさんです。
「局長だ」
部長から教えられ、わたしはあわてておじぎをしました。
「それでは、と」
部長の目くばせで局長がうなづき、何かが始まろうとしていました。わたしは部長に所属部署をきかれ、担当をきかれ、受払ですと答えると、いつからかときかれました。いまさらなぜ?と思いつつ、全部まじめに答えました。
「きのうは何時まで?」
「二時半です」
「業務終了後、特殊室に入ったね」
「はい」
ここで数秒間沈黙がながれ、その張りつめた空気の中で発せられた部長のことばを、わたしは忘れることができません。
「きみは作業台から何かを持ち出した」
わたしは「え?」と言ったなり絶句しました。自分が不利な立場に置かれていることが急にわかって、心臓がはげしく鼓動を打ちます。持ち出したのは自分のペンですという説明も、しどろもどろになりました。
「ペンだけ?」
「いや、あの……手紙を」
「手紙? 郵便物か」
「違います!」
とっさに、めったに出ない大きい声が出ました。たいへんなことになったとあせるわたしに追討ちをかけたのは、ようやく口をひらいた局長でした。
「きのう特殊室で現金書留一通が紛失した」
わたしはガクガクする足を押さえました。
「きみの行為は防犯カメラにうつっている」
局長はさらに「国際小包のかげになって明瞭ではないが」と前置きして、
「きみはポケットに何かを隠した」
とつけ加えました。
「ですからそれは自分のペンと……」
わたしの反論をさえぎるように、鼻さきに小さな機械が突きつけられました。部長はそのボイスレコーダーをこまかく振って言いました。
「警告しておくが、この会話は録音されてるからな」
 
うわさはまたたく間にひろまりました。
「取調べ」のあくる日、青エプロンたちは、わたしを見かけると小さくかたまり、ひそひそと話を始めました。笑い声が遠ざかるわたしを追ってきます。
特殊室には、重い心をひきずって、うつむいたまま入りました。ヒカルは気まずそうに目をそらし、「おつかれ」とだけ、背中でぼそっと言いました。
一日めのぎこちなさは二日めには倍にふくらみ、やがてあいさつもかわさない日が訪れて、いつしかわたしは、ヒカルに姿を見られないよう、こそこそ逃げかくれするまでになりました。
もうやめたい――
でもおかねどうする――
やめたい――
おかねどうする――
よみがえったなやみが寄せては返し、気がつくと、わたしは味覚をうしなっていました。
口の中は薄い塩水をふくんだかのようで、砂糖は砂のごとく、ただざらざらして、むなしくとけては消えてゆきます。
やめたい――
でも――
 
味覚を喪失して七日がすぎました。
世界は日に日にあたたかくなるのに、わたしの心はしんしんと冷えてゆきます。
毎日だれとも口をきかず仕事をして、終るやすべてから逃げてかけだし、ちょうどくるバスに乗りました。
けれどその日、停留所まであとひと息というところで、バスは行ってしまいました。つぎをじっと待つ時間がつらくて、ゆきさきも決めないまま、わたしは歩きだしました。
「あ、つばめ」
一羽のつばめが身をひるがえして飛んでいます。わたしはつばめにいざなわれ、知らない小道を歩きました。住宅街のかどをまがると、つばめはまっすぐ空をのぼり、わたしの目の前に、お地蔵さんのほこらのようなかわいい小屋があらわれました。そこは野菜やくだものの直売所で、わたしはおばあさんに手まねきされ、つやつや真っ赤ないちごを買いました。
小屋のうしろは雑木林のようでした。
静かな林で、葉ずれのささやきしか聞こえません。
わたしはだれかに手を引かれるように、木立ちにわけいってゆきました。
木立ちをぬけると、うそみたいに視界がひらけ、一面の明るい草はらです。
春が働きかけています。絹を透かしたようなやわらかい光が生きとし生けるものにそそいでいます。たんぽぽにも、しろつめ草にも、すずなりに咲くこでまりの白い花にも。
ふと、呼び声が心に降りました。
なにかが、わたしを呼んだ気がしたのです。
聖なる場所へあがろうとするひとのように、わたしはくつをぬぎ、はだしになりました。
足うらに感じる草のやわらかさ。くすぐったさ。
わたしは、こでまりのしげみにゆっくりと近づきました。
純白のあまたの花。おなじ白さの小さな蝶。花と遊んでいるかのように、蝶はあちらからこちらへと、ひらひら、ふわふわ、思いのまま飛んでいます。そのようすを見ているうち、
ああ、手ばなそう――
透明な思いが心の奥からこんこんと湧いてきました。
やめよう――
やめられる――
あるかなきかの風にゆれ、花がこぼれて蝶になるやら、蝶がとまって花になるやら、涙のレンズでにじんだ花野は、まひるの夢のようでした。
わたしはきた道をもどり、退職届を笑顔で書いて提出しました。
さよなら郵便局――
つぎの朝、いちごを食べるとほんのり甘くて、わたしはひさしぶりにわたしでした。たいせつなものをとりもどした実感が舌の上にひろがってゆきました。
 
そのあとわたしは、こでまりの花を水彩の絵にかき、自分のブログにのせました。
本の表紙に使いたいという打診がきた時は、この手で鐘を打ち鳴らしたいほど心がはずみました。絵はアメリカの本の表紙をかざり、それをきっかけにわたしはイラストレーターの仕事だけで生きてゆけるようになったのです。
とらわれびとからしあわせびとへ――
魂は呼びかけます。
それは光に咲く小さな花からこだまし、もう、消えることはありません。



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