食べて感情を昇華できるお金
日々の生活における、資本主義中心の現代社会への行き場のない憤りを「お金」に投影して「消化」したい
日経未来面×COMEMO お題「20年後、どんな『延長線上にない変化』が起きる?」に関連し、「食べるお金」のコンセプトを考えてみる。
「お金」は今日の資本主義のシンボルだとして、アイロニカルに、お金を食べることで、資本主義を競争社会の辛い経験や記憶を昇華し、消化することは可能だろうか。
「昇華」ではなく「消化」: あたらしい「お金」のかたち
心理的防御機能の一つに「昇華」というものがある。社会的に実現不可能な目標や葛藤や満たす事が出来ない欲求から、代替の社会に認められる目標を実現によって自己実現を図ろうとすることと一般的には定義されている。
私たちは貨幣経済から逃れることはできない。しかし、「感情を消化し昇華するお金」があったらどうだろうか。
お金「が」感情をコントロールするから、お金「で」感情をコントロールするへ
従来のお金とは、一定の価値を保証する私たちの経済活動に対する「手段」である。しかしそれらん定義の元においては、お金は狭い枠に閉じこめられている気がする。
お金は、度々私たちを好ましくない行為に駆り立てる。買い物依存症、暴食、売春などお金を使い「モノ」や「コト」を消費することで気持ちを和らげようとする。
しかし「お金」自体を「目的」へ変換することは可能だろうか。お金自体が社会的存在意義をもつ社会を私たちは需要かつ受容できるだろうか。
「お金」が、 私たちの「存在」「意識」「時間」によって自由に収縮する。私たちの日常の生活における様々な「コンテクスト」(文脈 状況 背景) によって自由に伸び縮みするそんなお金があったら興味深いとわたしは思う。
「お金」は本当に甘くないのか
「社会はそんな甘くないよ」「お金を稼ぐって簡単なことじゃないんだよ」とよく言われるが、これからの時代、より一層個々の「自分」を前面に出し外に向けて発信することが求められる社会になってくはずである。
しかしどうだろうか。私たちは「外側」に発信するだけでなく「内側」を気にすることが十分にできているだろうか。外側に発信することで生じる精神的ストレスをお金の形でぐっと飲み込み、身体の内側に取り込むことはできないのか。
この社会で「文句は飲み込む 口に出さない」「弱音は吐かない」が求められているならば口から取り込めばいい その感情を お金とともに
「感情」と「環状」:「食べるお金」の仕組み
そもそも「#延長線上にない日々」とはどういう意味だろうか。今日の延長線上にある日々とは何だろうか。過去、現在、未来が一直線上にある時間軸を想定しているのだろうか。「違う世界線に行きたかった」という言葉を最近聞く。しかし私たちは本当に「線」の上を歩んでいるのだろうか。もし「時間」がそのものが存在していないとしたら 動いていないとしたら...
もし、私たちが環状の世界に生きているとしたならばどうだろうか
お金を使うとき 私たちは常に「渡す側」と「受け取る側」の「二方向」である。しかし、交換価値のない「動かないお金」は本当に必要ないのだろうか。お金が時間軸や人々の間を行き来するだけでなく私たちの自己の内外を「環状」に取り巻く存在になることは可能だろうか。
「睡蓮」と「投影」
この貨幣経済において私たちを不安に駆り立てる ambiguity (不明瞭感) uncertainty (不確実感) unknown (未知感) も全て「お金」に投影して飲み込むことで、この世界を少しでも生きやすくできないだろうか。
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