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『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Epigraph

 本書のテーマは、この私が今ここにあることです。この私が今ここにあるとは、そもそもどういうことなのでしょうか。それは、この私の今ここへの問いといってもいいでしょう。必ずしもこの問いに対する答えではなくても、この問いを考える上でなにか手掛かりになるようなことを、これから探し求めていくということです。もしそれをどこまでも探し求めていこうとするなら、それはたぶん終わりのない探究になります。

 例えば、私は、今ここで、この文章をノートパソコンで書いています。おそらくなにかを思いながら。なにかとは、今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかったとかです。もう少し硬く言えば、今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかったという私の経験です。その私の経験を、私は今ここで、「今から一週間前に入った温泉のお湯がとても気持ちよかった」と思っているのです。でもこのことは確かでしょうか? また「このこと」とはどういうことなのでしょうか?

 さらに次のように問うことができます。私が今ここで書いているということは、この私が今ここにあることとなにか関係があるのでしょうか? それともとくに関係ないのでしょうか? ちょっと振り返ってみると、私が今ここで書いているということのうちに、この私が今ここにあることはすでに含まれているように思えます。あるいは、私が今ここで書いているということは、この私が今ここにあることのうちにすでに含まれているようにも思えます。でもその含まれているとは、いったいどういうことなのでしょうか?

 この私が今ここにあることを巡る旅には――旅するこの私以外に――主な登場人物が三人います。カント、永井 均、入不二基義です。三人とも比類なき哲学の高峰です。高峰とは、そびえ立つ立派な山ということですね。そんな山にこの三人の哲学者はたとえられるのですが、私は、これからの旅には、この三人の仕事を参照するのが最もよいと思いました。というわけで、本書は、カント哲学、永井哲学、入不二哲学のコアは何か、それら三者がどのように関わるのか、そしてその接点から開かれていくこの私の今ここのあり方とはどのようなものなのか――これらの問いの探究でもあります。

 哲学とは――そのもともとの意味は「知を愛すること philosophia」なのですが――なぜかこの私に訪れた問いをどこまでも探究していくことです。どこまでも探し求めていくというそのあり方が、きっと愛するということなのでしょう。であるなら、なぜかこの私に訪れた問いがあって、その問いをどこまでも探究していく旅に出るなら、それはすでに哲学を生きているということになります。哲学とは、何かの学問ではなく、なぜかこの私に訪れた問いを今ここで生きることそのものなのです。

 ここで、本書のタイトル『形而上学 この私が今ここにあること』について説明します。本書は、先に紹介した永井 均氏の助言「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して書くとよいのではないでしょうか」を指針にして書いています。ここで「まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない」などという言葉を読んで読者のみなさんがこの本を投げ出したりしないことを祈りますが、そういうわけで、哲学の専門用語はできる限り使わないか、使うとしてもできるだけかみ砕いていくことにします。
 まず、タイトルの「形而上学」――読みは「けいじじょうがく」となります――ですが、これはもともとはアリストテレスというプラトンの一番弟子で「すべての学問の祖」と呼ばれる古代ギリシアの偉大な哲学者の一群の講義ノートに後からつけられたタイトルです。それらノートの内容は、今でいう物理学(一般に自然科学)の祖である「自然学(ピュシカ)」の探究の後でなお残された――つまり自然学によっては探究できない――問題に絞った探究の記録です。それで、この講義ノートは、ギリシア語で『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά 自然についての書の後の書)と名付けられました。ということで、ギリシア語でμεταφυσικά、ラテン語でmetaphysica、英語で言えばmetaphysicsとなり、この場合の「meta(メタ)」が「の後の」、「physics」が「自然学」(物理学)です。
 先に述べた本書のテーマ――この私が今ここにあること――を巡る問い、つまりこの私の今ここへの問いは、物理学(自然科学)の探究の後でも生き残るような形而上学の問いなのです。形而上学の問いを探究することは、哲学することそのものです。


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