数学における極限操作は、数学という理念的な学問領域全体の核心に位置している。言い換えれば、この数学という学問領域が理念的であることの核心は、極限操作なしには存立できないということである。極限操作それ自体が、真の連続性を表現する実数に典型的な無限という領域の産出なのである。
極限操作なしには理念的学問としての数学が存立不可能だということは、例外/外れ値を完全に除去するという課題を人類が達成することは不可能かもしれないということである。少なくとも数学においては永久に不可能かもしれない。
哲学の力とは、今ここで、この私が世界の果ての彼方の無限遠点 (point at infinity)へと到達し、同時にその到来に出会う自由という力
数学における極限操作とは不連続性を連続性へと切り替える変換操作である。それにより有限性から無限性が産出される。
時空の直観を議論の前提にしながら殆どの哲学者/哲学研究者がそれに無自覚なのは驚きです。最先端物理学(量子重力理論)では時空を理論の背景/前提にできるかどうかが究極の問題になっているのと際立って対照的です。多分殆どの哲学研究者はこれの意味することを理解すること自体難しいと思います。
私の仕事『形而上学 〈私〉は0と1の〈狭間〉で不断に振動している』は全ての哲学者&哲学研究者はもちろんですが、全ての物理学者&数学者にも読んでいいただきたいと思っています。
拙稿『形而上学』のサブタイトルを「この私が今ここにあること」に改訂しました。『序論』「Epigraph」の第二次リライト版(たぶん最終稿に近い)執筆作業を先ほど完了したところです。
かみ砕いて言えば、物理数学の究極課題は「重力と時空の関係性」を完全に定式化すること――完全な量子重力理論の構築――である。周知の様に超弦理論も未完成である→「それは既存の数学では無理かもしれない。次世代の数学に期待すべきなのかもしれない。」――『究極理論への道』米谷民明氏の言葉
クリプキは、現代哲学において「と呼ばれる」(より正確には「呼ぶという関係」)の驚くべきメタレベル性に気づいた極めて稀有な哲学者である。私はその問題を全面的に展開して探究している。なおクリプキの批判するラッセルの確定記述は特定の実在世界の実在性の記述でしかあり得ない。