『葬送のフリーレン』というアニメを最近見た。とても面白いアニメだったので、ぜひ原作も読み、2期も鑑賞しようと思う。 さて、『葬送のフリーレン』の作品のひとつのテーマに、「別れ」というのがあると思う。作中ではいくつもの出会いと別れが描かれる。ヒンメルやハイターとの別れ、アイゼンとの別れ、その他過去や現代で出会う人々との別れ。再会することもあれば、それが永久の別れとなることもある。まるで、僕らの人生そのもののようだ。 さて、僕は別れというものを、怖いものだとして考えている。特
僕は歯が弱い。小さい頃から虫歯が多く、今では奥歯の大半が銀冠を被っている。体質的な弱さと喫煙、甘い物好きのおかげで、口内環境は、宴会の終わり際のように荒れている。 ところで、歯科医からは常々、フロスを使えと言われるので、最近は気がついたら使うようにしている。歯は表面を磨くだけでは不十分で、むしろ歯の間隙や、歯肉の奥に汚れが溜まりやすいらしい。だが、人は皆見える部分だけ磨くため、知らず知らずのうちに歯が汚れ、その汚れが膿となり、やがて歯は腐り、抜け落ちる。 なるほど、人間と
この世に生まれた意味はなくとも、役目はある。役目とは、その人の一生に誰かから託された使命である。それは、大きなことではない。あるものに触れること、ある人に出会うこと、ある場所に行くこと、そういったものだ。人は生まれてから様々な道を行き、やがてその使命を果たすために、はたらくようになる。 旅に出る者、食する者、作る者、描く者、読み解く者、耕す者、建てる者、戦う者、売る者、見る者、なんだって良い。その人が行くべき道を行くのだ。 そしてこれは、僕という人間に託された使命の話だ。
お前が生まれる遥か昔から俺は世界にいた お前が育ちきったときそこに俺はいなかった お前が生まれたとき泣いていた声を俺は知っている お前がまだなにも知らなかった頃から俺は知っている お前の親がお前が生まれなければ別れていたことも知っている お前のその曲がった足のまま笑う姿を知っている 俺はお前がようやく立てるようになった日も 話すようになった日も 反発するようになった日も知っている あの雨のなか親の喧嘩を止めようと知らせに来てくれたことも知っている お前がはじめてキャッチボ
僕は常々、分かち合うこととは経験を薄めることだと感じている。共有が大事だと馬鹿の一つ覚えのように言われるが、共有すればするほど、もとの体験からは遠ざかって行く。殊に人間の悲しみや苦しみは、共有することで弱まってしまうと思う。被害の告白とは、ゆえに勇気がいることだ。誤解も生まれ得るし、うまく伝わるとは限らない。僕は、何かしらの苦しみや悲劇を抱える人は、あえてそれを伝える必要もないと思う。わかってもらえるなどという希望は捨てた方が良い。人の本当の苦しみは分かち合えない。僕もまた、
さて、これはいつも書いているような作品ではなく、僕の好きな煙草についてひたすら語るだけの文章となります。喫煙者となって早数年、これから先もまだ吸うねん、という下らない冗談を言ったところで、早速まいりましょう。 1.Peace(50)缶入り 通称缶ピースと呼ばれ長年愛されてきた、この煙草。上質なバージニアリーフを、気密性の高い缶に50本も閉じ込めた、最高の逸品。個人的に日本煙草の王者と言っても過言ではありません。ニコチンタール量も怪物級。学生の頃からもう10缶以上開けてきまし
大人というやつに成ってくると、段々と自分というものがわかってくるようで、服なども昔みたく流行りのものとか、ショーケースの一番前にあるものよりも、自分の体に似合っているものを選ぶようになる。僕は白い服よりも黒い服が似合うし、ジーンズよりはチノパンが似合う。そうやって全てにおいて、自分に合うかどうかを大事にする。いつからかわからないが、そんな感覚が芽生えるようになった。ある程度成熟した人間は、みんなそういう感覚があるように思う。 例えば、みなさんは次の2つの歌のどちらが好きだろ
ひとつ、考えたことを述べたい。 天と地は、果てまで進もうと一点も交わることがない。どこまでも平行だ。地に立つ僕らは、天を見上げ、手を伸ばすしかない。だが、その手の先が、絶対に天に触れることなどないと知っている。 地を自己と見た時、天を他者と置けないだろうか。僕はこの寓話的な捉え方が好きである。天と地を他者と自己に例えたとき、案外ハマっているように思える。 天と地の発生は、科学的に言えば、もちろん宇宙ができ、地球ができ、大気ができ、大陸ができたことによる。神話的に言えば、
注記:この文章は鬱体験談です。実体験に忠実に書かれています。 Xのフォロワーで、自分と似た感じの方がいた。鬱で、前に進めずに困っているらしい。境遇は個々で違えど、僕はそんな姿に自分自身を重ねざるを得なかった。だから、僕はあの頃の話をしよう。僕が同じように苦しんでいた、あの頃の話を。 大学4年、21歳の頃に中程度の鬱を発症してから、僕の毎日は変わってしまった。朝は起きられない。夕方ごろまで布団の上で過ごして、やることといえば、YouTubeを眺めるばかり。画面を見ていること
25歳の8月末。この頃の風は、内陸のこの地でありながら、どこか海風のようで、熱くなった頬に冷たく触れる。正午前、アスファルトの道を職場へ急ぐ途中、見上げれば青空が広く感じた。電線と、その先に建つ役所の屋上が、ブルーバックに浮き上がる絵のようだ。また風が吹くと、ふとした瞬間に感覚が、過去を呼び起こす。恐らくこの風は、27.8℃ほどだろう。10年前のあの頃の風に似ている。少し冷えた風。あの頃の記憶が蘇る。 15歳の8月末。まだじいちゃんも生きてたし、家族揃って食卓を囲んでいたし
最近、好きな言葉がある。 「一茎草を拈じて宝王刹を建て、一微塵に入りて大法輪を転ぜよ」 これは道元禅師の「典座教訓」のなかの言葉らしいが、典座とはご存じのとおり、禅宗において、料理をする役職のことだ。この言葉の意味は調べていただければわかるだろうが、僕はこの言葉が、非常に道元禅師らしいと思うし、その「らしさ」に感動を覚える。 神は細部に宿る、とは西洋の美意識だが、東洋風に言えば、仏は細部に宿る、ということだろうか。僕は大学で禅を知るまで、仏道の修行とは読経であるとか托鉢で
あーーー! ばかやろう!くそくらえ!って感じ。 最近、真面目に生きすぎている。いや、自分ではそんなつもりはないけど、真面目らしい。まあ、確かに細かなことで不安になるし、仕事の成績やミスをめっちゃ気にする。そんな性格だから、書く文章も真面目になる。この間のあの、ボードレールとかなんとか言ってた文章を読んだかい? 面白さの欠片もないよあんなものに。 職場では上司も含め、どいつもこいつも不倫やらセックスやらだ。もっとしっかりしろ。大人なのに情けないわ。そういう話を聞けば聞くほど真面
ここではない、どこかへ。 人間が作った文明も、遂に人間を疎外するまでに至ったとは、前世紀の様々な例における結論だが、それがマクロにしろミクロにしろ、僕らの存在を脅かし、一方で僕らの存在を形作っているとは驚きである。僕らは、恐怖や絶望によっても、存在を形作られている。 昼、パスタを食べた。雨風のなか、近くのイタリアンで。連れと同じご飯を食べ、語り合った。そういう瞬間にだけ、僕が日頃の鬱屈を忘れられるのは、案外その文明的と見える行為が、文明を介さずとも可能な行為だからかもしれな
バーカ。 いや、このページを閉じないでほしい。読者のあなたに言ったわけではなく、労働に対して、ムシャクシャする気持ちに対して、誰でもない誰かに対して、言っただけだ。昔の少年漫画にあるように、水平線を赤く染める夕焼けに向けて、バカヤローと叫ぶあの感覚だ。僕にだってムシャクシャして叫びたくなる日はある。 いったい僕は、何に向けてそんなに怒るのだろう。よくわからない。25年生きていて、怒りの矛先は、実は向かう先が無く、単純化したいがためにやむ無く、誰かに向けるのだろうと思ってい
金にならない物事は無駄なのか。それならば、この世は無駄なものばかりだね。 …… 昨晩、Xのフォロワーさんが涙ながらに、自分のやりたいことがお金に直結しない、と嘆いていた。諸事情で少ししかお話を聞けなかったが、あぁ、これは僕も無視できないなあと身につまされる思いだった。 少しまた、僕の話をしよう。僕は都内の私立大学を卒業後、一応適当に就活をした成果で、とある福祉関係の施設に就職した。だが22歳まで殆ど労働というものをしていなかった僕に、フルタイム夜勤ありの労働がつとまるは
セックスをしていたり、他人のセックスの話を聞いたりして思うのだが、要するにそれは子作りの儀式であるだろう。某政党の某政治家のような物言いになったが、その子作りという観点が僕にはどうも重くのし掛かるようだ。そもそも、自分の内臓を他人の内臓に入れてゴシゴシするなど、大分無理をしている。加えて怪我をしたり病気になったり、心的な面でもダメージを負う可能性があるので、大変危険に思う。もちろんそこで性的な興奮を感じたり、オキシトシンなどが出たりするのだろう。ただこのオキシトシンというホル