別れへの耐性


『葬送のフリーレン』というアニメを最近見た。とても面白いアニメだったので、ぜひ原作も読み、2期も鑑賞しようと思う。

さて、『葬送のフリーレン』の作品のひとつのテーマに、「別れ」というのがあると思う。作中ではいくつもの出会いと別れが描かれる。ヒンメルやハイターとの別れ、アイゼンとの別れ、その他過去や現代で出会う人々との別れ。再会することもあれば、それが永久の別れとなることもある。まるで、僕らの人生そのもののようだ。

さて、僕は別れというものを、怖いものだとして考えている。特に大切な人との別れは、人生を一変させてしまうほどのもので、その悲しみや絶望の重さは知れない。それまで一緒に紡いできた時間が一瞬にして崩れ去るような喪失感。その人に対する愛が深ければ深いほど、僕らはそれを失ったことによる悲しみに打ちひしがれる。

激しい別れもあれば、ゆるやかな別れもある。気がつかない別れもたくさんある。幼き頃、共に過ごした彼らは、今どうしているだろうか。ともに切磋琢磨したあの学友は、僕よりも立派になっただろうか。若き頃恋した人々は、良い出会いに恵まれただろうか。皆、僕のことを覚えてはいるだろうか。その別れは些細な別れでも、気づかぬだけでもう二度と会えない別れだったかもしれない。会おうと思えども、会う方法もわからない。向こうが死んでいる可能性もある。あまり別れを経験したことがないと思っていたとしても、実は認識していないだけの別れが幾千幾万とあるかもしれない。

井伏鱒二は、于武陵の詩をして「花に嵐のたとえもあるさ。さよならだけが人生だ」との名訳を残した。人の一生には、出会いがあり、それは必然に別れを生むものだ。いやむしろ、別れのために出会うと言えなくもないほどに、僕らの生きることは別れのために捧げられている。最良の別れをするために、人と人は出会ってゆく。僕らは産声をあげた瞬間に、世界との別れを確約されている。その別れに向かい歩く様が人生となる。フリーレンのごとく旅を続けることこそが、まさに人の一生そのものであるだろう。

別れはつらい。何度でも述べたことだ。そしてさらに嫌なことに、運命は別れを必ず、突然のものとして人の子に与える。天災や病、事故や不運、様々な理由により多くの別れが誕生してきた。僕らも他人事ではない。今日、僕らのとなりで笑い泣く友が、親が、恋人が、妻が夫が、子が、明日同じ世界にいる保証はない。そんな当たり前の事実を僕らは、精神的な安定のために、見ないようにしている。信じないようにしている。だが、未来を知るものが誰一人としていないように、世界は残酷にも、何が起こるかはわからないものだ。ともすれば僕ら自身も、今夜、人の知らぬ間に死んでいるかもしれない。そして、残されたものの嘆きは、想像するに難くない。僕らは愛しきものを失う苦しみを何度だって見てきた。それが未だ自分へと降りかからざる災厄だとしても。

だが、僕は、別れが人類にとっての必然の苦難であるがゆえに、人間という生き物は、それへと耐性をつけているようにも思う。苦しみは人生という料理へのスパイスであると言われるように、別れというものは必ずしも乗り越えられぬものではなく、むしろ人生に新たな価値をもたらす。それがどんなに不条理で厳しいものだとしても。過去何万年、何千年と人類は別れに向き合ってきた。信仰や理性、あるいは物語によりその別れを乗り越える方法を見つけた。あるいはそれらがなくとも、別れを目前にしたとき、人間はその別れに意味を与え、それをもとに自己を組み直す。極限環境に住む生物が独自の進化でそれに適応するように、人間は別れに適応してきた。案外、どんなにつらい別れであっても、そこに意味が生まれ、そしていつか、それすらも時間が忘却の彼方へ送ってくれる。弔いとは、忘れ得ぬための儀式でもあるが、忘却の儀式でもあると思う。僕らは、正しく別れを忘れてゆく。

僕には愛する人がいる。永遠に別れたくはない。その人とともに生きてゆきたい。だが、それは叶わぬ願いだ。いつか別れが来る。その前提で人と向き合う。そしてそのいつかは、今だとも言えなくはない。別れがあり、悲しみがあり、絶望があり、そして長い旅路の先で、その全てが忘れ去られる日が来る。永遠なる忘却がやってくる。だが、それのみが救いとも言える。僕らの旅路など、所詮誰一人覚えてはいない日が来る。それこそが正しいと言える。無限なる忘却の果てに僕がいて、これから永遠なる忘却の果てに、また新しいいのちが生まれて死ぬ。それを繰り返す。

人間は、別れがあっても平気だ。平気で生きて、平気で忘れる。どんな勇猛な英雄も、どんな偉大な詩人も、やがて忘れられる。僕が生きていたことも、100年後にはもう誰一人覚えてはいないだろう。でもそれでいい。それだから、救われる。

僕らには過去も未来も関係ない。今この瞬間こそが全てだ。やがて全て失くなるのだから、僕ら自身も、その記憶も歴史も失くなるのだから、今だけが全てだ。そう思えば、僕らにやることはただひとつである。今を踊り続ける。大切な人と過ごす今だけを見る。今だけを聞き、今だけに触れる。それが人間にできうる、最大の生きるという行為である。
僕は、そう思い、別れを前に日々生きている。

厩橋(2024.10.30)


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