先日の詩について

この世に生まれた意味はなくとも、役目はある。役目とは、その人の一生に誰かから託された使命である。それは、大きなことではない。あるものに触れること、ある人に出会うこと、ある場所に行くこと、そういったものだ。人は生まれてから様々な道を行き、やがてその使命を果たすために、はたらくようになる。

旅に出る者、食する者、作る者、描く者、読み解く者、耕す者、建てる者、戦う者、売る者、見る者、なんだって良い。その人が行くべき道を行くのだ。

そしてこれは、僕という人間に託された使命の話だ。

かつて孔子は、五十而知天命、と書いたが、僕はまだその半分の年齢で、当然己の使命などわからない。だが、誰かから与えられ託されていることはわかる。そしてその誰かとは、神や天などという大袈裟なものではなく、案外この地に根付いたひとつの血脈であることに気がついている。僕を産み育てた先人たちからの贈り物が、僕を形作る運命である。命を運んで行くと書いて運命。僕は、届けられた命をそのさきに送り繋がなければならない。

僕にとってのその役目をここで書く必要はない。まだ僕にもよくわかっていないからだ。だからそのessenceを詩にしてみた。それが「天国の塔の下に来い」である。

あの詩は、ネタバラシをすれば、今は亡き僕の祖父が、僕に向けて言葉をかけてくれるならば、どんなことを思うだろうか、という発想に始まった詩である。だが老齢の者はあまり熱い言葉を語りたがらない。だから、祖父を僕と同じ年齢とすることにした。構成としては、僕と同じ年齢の祖父が、まだ生まれる前の子孫に向けて、託す言葉である。だが時間軸のねじれがあり、僕についての全てを見て、祖父はその人生を全うした地点の知識を有しているものとした。そしてまた、この詩は僕が後世の「僕」に託してゆかんとする言葉でもある。

だから、僕の生まれや、ハンディ、それから僕の生きてきた道、幸福も不幸も、苦労も努力も、愛も涙も、ふんわりと匂わせてみた。僕の祖父は僕がちょうど二十歳の頃に死んだ。その後の僕の軌跡は知らない。一緒に酒を飲むこともできなかった。だけど僕は、いまだに祖父が見守ってくれているものと思っている。祖父は偉大な人物である。友も多く、信頼されていた。仕事熱心な人だった。僕をあまり叱ることは無く、遠くから見守っていた。

僕は祖父の生きた軌跡を知らない。

僕はどこかロマンチストなのか、血脈というものを信じている。血統とも言える、脈々とこの血に受け継がれた呪いとも言えるような定めと、託された何かを信じている。僕は訳あって何度か死んだような人間であり、この人生というゲームももう自分のなかではクリアしたような気分でいる。だから、僕はこの残りの命を、その定めというやつに費やそうと思っている。自分のためではなく誰かのために、何かのために生きようと思っている。そして僕に託された真実とは何なのか、知るために生きようと思っている。

その詩は僕が僕に向けた言葉でもある。

いつかその役目を知り、それを果たしたときに、僕は本当の命を終え、天国の塔の下に行く。そこに祖父や、僕に託してくれた先人たちがいることを信じて。

厩橋(2024.9.30)


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