天と地の祈り
ひとつ、考えたことを述べたい。
天と地は、果てまで進もうと一点も交わることがない。どこまでも平行だ。地に立つ僕らは、天を見上げ、手を伸ばすしかない。だが、その手の先が、絶対に天に触れることなどないと知っている。
地を自己と見た時、天を他者と置けないだろうか。僕はこの寓話的な捉え方が好きである。天と地を他者と自己に例えたとき、案外ハマっているように思える。
天と地の発生は、科学的に言えば、もちろん宇宙ができ、地球ができ、大気ができ、大陸ができたことによる。神話的に言えば、それぞれ違うだろうが、概ね神が作ったとされる。まだ文明が未熟な段階においては、天も地も祈りの対象であった。地は直接の恵みの源泉であり、天は上から押し付けられる災いであった。そして天は、神々の領域とされることが多かった。なぜなら、天には辿り着けないからだ。やがて文明が進み、進歩した僕らは、地に干渉するようになった。地から木の実や獣を狩り、己の糧とした。地を耕し、より多くの糧を得るようになった。だが、文明化された僕らであっても、天は耕せなかった。天には祈ることしかできなかった。天には干渉できない。故に天からの災いに苦しめられ、日照りには雨を乞い、雷を恐れるしかなかった。そこに神聖を感じるのも、当然のことだった。
僕はここに、どこか人間の他者との関わり方に似たものを感じる。
他者は神聖なものだ。神聖にて不可侵のものだ。ある哲学者は他者を無限と表したが、僕もその通りだと思う。他者には辿り着けない。精神的かつ肉体的な交わりをどんなに深く持とうとも、僕らは、自分のとなりに裸で寝転ぶ恋人の、本当の心を知らない。こちらをじっと見つめる家族の、その眼の奥にある真実を知らない。そういう点で、他者は始原の僕らにとっての、祈るしかなかった天と表すも相違ないだろう。あまりにも謎が多く、恐れの対象となるのも当然のことだ。他者は不可侵の神秘なのである。
天は、至り得ぬ楽園であるが、地との関わりがないでもない。地から立ち上る水気がやがて、天に溜まり、それが地に雨をもたらす。僕らが他者へと積み重ねた思いや働きかけが、他者からのお返しをもたらすように。時にそれが雷となり僕らを脅かすのもまた、僕らが他者と関わる上でよく知る事態だろう。天から降り注ぐ光が生き物を養うように、他者から与えられた本当に多くの様々が、僕らの体と心を培ったのも言を俟たない。僕らの全ては、親や友や恋人や多くの先人たちからの、恵みに他ならない。僕らは他者という天に生かされてここまで辿り着いている。
だから僕らは、天を夢見た。そして科学の進歩は、天を突き抜けることを可能にした。だが、他者という天はついぞ、僕ら地にとって不可侵のままである。関わりはあるが、辿り着けない。科学が進歩しようとも、永遠に秘匿されたままだ。
僕らは、他者という天に、今もまだ、祈ることしかできない。祈り、尊ぶ。そして様々な細やかな祈りが、地の水を巻き上げ、緩やかに天に昇るとき、僕らは天から、無限の恩恵を受けとるのである。それは、多くの場合に愛と呼ばれる恵みである。天もまた、祈っていたのだ。僕ら愚かで稚拙な地に向けて、暖かな光を向けていたのだ。
天と地の祈り。僕らが他者に向かうためのたったひとつの方式。優しくありたい。どうか優しくありたいと、願うばかりだ。
今日もまた、どこかで祈りを捧げる、地の声がする。そして、それに応えんとする、天からの声が聞こえる。
厩橋(2024.8.30)