似合うという感じ
大人というやつに成ってくると、段々と自分というものがわかってくるようで、服なども昔みたく流行りのものとか、ショーケースの一番前にあるものよりも、自分の体に似合っているものを選ぶようになる。僕は白い服よりも黒い服が似合うし、ジーンズよりはチノパンが似合う。そうやって全てにおいて、自分に合うかどうかを大事にする。いつからかわからないが、そんな感覚が芽生えるようになった。ある程度成熟した人間は、みんなそういう感覚があるように思う。
例えば、みなさんは次の2つの歌のどちらが好きだろうか。
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに
上は牧水、下は啄木だ。もちろん比較するべき2つではないことをわかった上で、直感で選んでほしい。僕にとっては、どちらもとても好きな歌だが、どちらか選ぶなら啄木かな。迷うところだが、どちらかひとつしか人生にもってゆけないとするならば、僕は啄木の歌を持ってゆく。
ピースとマールボロなら、ピース。ホワイトホースとジョニーウォーカーなら、ジョニーウォーカー。シュナウザーとヨークシャーテリアなら、シュナウザー。うどんとラーメンなら、うどん。ポップスとロックならロック。まあ、そんな感じだ。どちらかしか自分とともに行けないとすれば、どちらか。僕らのアイデンティティーというのは、案外、自分に似合うかどうか、様々を照らし合わせて、そこから繋がってゆくのかもしれない。大人になってゆけばゆくほど、僕は、自分に何が似合うのかを大切にしてきているように思う。
歌舞伎においては、板に付くという言葉がある。役者の演技が床板の上にしっかりと乗っている感覚だそうだ。転じて、その役目や仕事が、その人にしっかりと合っていることを言う。まあ、一言で表せば成熟を表す言葉である。僕は先ほど、成熟したら似合うという感覚を手にしてきたと述べたが、それに通じるものを感じる。人間という仕事も、何年も何年もやってみると、板に付いてくるようだ。僕は、大人になればなるほど僕らしくなってきている。みんなそうだろう。譲れないものが出てくるし、性格も固まってくる。悪く言えば頑固、良く言えば、味が出てくるとでもしておきたい。
名は体を表す。芥川龍之介の「侏儒の言葉」という本が僕は好きだが、その最後の節をご存じだろうか。それは「渾名」という節で、マツポンという渾名の教師について書かれている。芥川にしては珍しく、そのマツポンがなぜマツポンなのかは、文章では表せないと述べている。その人をみれば、渾名の通りマツポンという感じなのだという。僕はこういうなんてことのない文章が好きだ。僕らもまたそれぞれ名前を持つし、渾名を持っている。だがそこには特別な理由がないことが多い。なんとなく、その人に合っている、だからその名がつくのだ。
僕が自分に似合っているな、と思うときも、特別な理由などなかったりする。例えば友人や恋人もそうで、なんとなく相性がよいから一緒にいて楽しいのであって、端からそこになにかがあるわけではない。要は、好きだから好きなのであり、理由などないということだ。なんだか単純すぎる月並みな話になったが、それこそが人生においてもっとも大事なことと思う。自分のやるべきことは、自分に似合っていることであるかどうか、それだけが大事であり、なんだか似合っているなぁと思えば、それをやり続けると板に付いてくるものだ。誰かに薦められた音楽や本などは正味読まないし聞かないだろう。だが、自分で見つけた作品は、いつだって心踊るものである。
自分の人生というのは、自分で見つけてゆくしかなく、誰かに押し付けられたり、強制されるものではない。最も楽しいと思えることをやり、自分に似合うものを身に付け、自分で満足し、また笑えるようになれば、それこそが自分の人生と言えるだろう。好きなたばこを吸い、好きな酒をのみ、好きな人と語り合う。何て楽しいことだろう。そこに他人の意見など、微塵も存在しなくてもよいと、僕は思うんだ。
イメージしよう。自分がそれをしている様子を。笑っている自分の顔を。それこそがあなたの人生の全てだ。
みなさんの似合うものを、大事にしてほしいと思うばかりである。肌に合う生き方を。魂が好む人生を。
厩橋(2024.9.10)