committed to excellence 阿波古代史など

阿讃の考古学・古代史の認知度を上げて真の歴史に近づきたい。 阿讃播備での女王共立の古代…

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阿讃の考古学・古代史の認知度を上げて真の歴史に近づきたい。 阿讃播備での女王共立の古代史。尊敬する考古学師匠や先人の調査資料の紹介など。 私の理解間違いも多々あるので、気づいたら更新します。トンデモ仮説も混ざってます(-_-;) 阿波で第1次藤原宮≠奈良で第2次藤原宮=新益京説。

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~卑弥呼共立前後の時代~ 弥生円形墓から萩原墳墓群・讃岐型前方後円墳への変遷 (更新:2024.7.28)

あくまで、考古学資料を調べ始めて間もない私の今の年代推定メモなので、調べながら随時仮説を更新していきます。 Ⅰ.弥生終末期には、吉備・播磨・讃岐・阿波の交流が深かったことがわかる考古学資料 弥生円形墓の拡散「古墳出現期の播磨」 岸本道昭 岸本道昭氏の『図:弥生円形墓の拡散』(2002「古墳出現期の土師器と実年代」資料「古墳出現期の播磨」)からは、 備讃播から阿波北東部→畿内への広がりが感じられる。 讃岐を核として、弥生円形墓から讃岐型前方後円墳に変えていった職人集団(讃

    • 先代旧事本紀・国造本紀と阿波考古学・阿波古代史との整合を考える

      ここでは、四国から始まったヤマト政権の広がりを推定するために、国造本紀を見てみます。 各地の国造はどの天皇により設置されたか各地の豪族がヤマト政権の臣下=国造として連合していったと考えると、 まず、神武時代と崇神時代に顕著な変化があります。 この二人の天皇だけが和風諡号で「ハツクニシラス天皇」と記されています。 初代:神武天皇が始馭天下之天皇 第10代:崇神天皇が御肇国天皇 神武時代(初代) ※ここでは、卑弥呼より後の3世紀後半~末と考えています。  この時代、本拠地

      • ”阿波邪馬台国説”を裏付ける材料となる考古学論文の紹介「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究 -近畿における広域流通の視点から-」 

        阿波説(阿讃共立説)を説明する材料として、こんなに適した論文があったのか!  阿波・讃岐から奈良大和への進出は、庄内式から布留式土器への変化の頃(卑弥呼の次の男王の時代)に急速に進んだのではないかと考えています。それを示す根拠になりそうな論文が見つかったので紹介します。 阿波・讃岐から準構造船で河内湖に渡り、旧大和川下流域の水田を開拓し、奈良盆地へ進出した様子がイメージできます。(そうは書いてませんけど) これに、阿波・淡路での鉄器生産、朱生産、銅鐸生産、小型丸底鉢の祭

        • 綾部山39号墓発掘調査報告書にみる、阿讃播連合の「東瀬戸内型祭祀」

          綾部山39号墓発掘調査報告書にみる阿讃播連合 有名な「現地公開サイト」より現地説明会資料を引用させていただきます。 綾部山39号墓発掘調査報告書2005から この調査報告書で中溝康則氏は、阿讃播連合の様子をよく説明しているので読んでおきたい。意外と当時の墳丘上の祭祀において播磨と吉備との関係は薄かったようだ。 中溝康則氏の文書を下記にそのまま紹介したい。簡潔に説明されており、大きな流れとしては分かりやすい。 ただ、(?箇所)3世紀までの存在感の薄い畿内内陸在地勢力が

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        ~卑弥呼共立前後の時代~ 弥生円形墓から萩原墳墓群・讃岐型前方後円墳への変遷 (更新:2024.7.28)

          658年阿波国司となった、阿波真人廣純とは、天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)ではなかったか?

          壬申の乱のとき、 「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也」  ずっと気になっていることがある。 658年阿波国司となった、阿波真人廣純とは、後の天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)ではなかったか? 根拠となるものは見当たらないが。 天武天皇(てんむてんのう、? - 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)は、日本の第40代天皇(在位:673年3月20日〈天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)。 諱は大海人(おおあま)。和風諡号は天

          658年阿波国司となった、阿波真人廣純とは、天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)ではなかったか?

          古代阿波だけにあった貴重な遺物(弥生~白鳳時代)

          最近のゲノム解析の研究結果より、四国阿波は、渡来人が早くから来て共生していた地域であると考えられる。太平洋や瀬戸内海航路をまたいで、海洋国家ヤマト国の中核となってきたのであろう。 論語木簡(徳島県観音寺遺跡出土) 論語木簡とは、四角柱の四面に文字あり、論語の文章の残る最古級の木簡。行政文書作成機関の存在を示唆し、大陸文化がこの地にいち早く直接渡って来たと考えられる。 7世紀の第2四半期にさかのぼる可能性がある。 阿波の国府から出土したが、ここが当時の日本国の首都だったのかも

          古代阿波だけにあった貴重な遺物(弥生~白鳳時代)

          ジオ・ヒストリア風、飛鳥万葉集の舞台(阿波「狐の帰る國」より)

          「狐の帰る國」坂東一男著、は徳島県旧勝浦郡多家良村(徳島市八多町)に生まれた実家に伝わる伝承をもとに、万葉集の舞台を説明した本です。 坂東氏は、「道は阿波より始まる」著者の岩利大閑氏とともに、阿波古代史を解き明かしてきました。 (「狐の帰る國」は発行元の京屋より直接購入できました。) 万葉集の時代の地形・情景を想像しながら google earth で阿波の空中散歩を楽しんでみましょう。 万葉集で歌われた海・川・山の情景がイメージできるでしょう。 ※青マークは万葉時代の比

          ジオ・ヒストリア風、飛鳥万葉集の舞台(阿波「狐の帰る國」より)

          藤原京出土木簡「己亥年十月上挟国阿波評松里」の謎(これは四国徳島からの木簡か?)

          有名な木簡の解釈について 『古語拾遺』などによると、四国の阿波忌部氏が黒潮にのって千葉に移住・開拓したことに由来して、房総半島に上総=安房の国ができました。 ここに、藤原京出土木簡のなかでも最も有名な木簡があります。 「己亥年十月上挟国阿波評松里」 定説の解釈では、己亥年は西暦六九九年(文武三年)、 「上挾国」は現在の千葉県南部「上総(安房)」とみなす。 「阿波評」はのちの安房国安房郡、安房国は七一八年(養老二)に上総国から分置される。 「評」は郡の前身で、七〇一年以後は

          藤原京出土木簡「己亥年十月上挟国阿波評松里」の謎(これは四国徳島からの木簡か?)

          ジオ・ヒストリア風、道具学 ~阿波・讃岐編~

          最近、youtubeの「週末縄文人」を知り見てみました。 そこで縄文時代当時に使える道具だけで、生活を少しづつ豊かにしていく様を再現している様子を見ると、感動さえ覚えますね。 ここでは古代、地理的背景をベースに、先進道具の発達した讃岐・阿波(伊予の二名島)について紹介します。 弥生時代の先進道具が、讃岐・阿波から近畿へ広がった痕跡を紹介していきます。  ~縄文から弥生にかけて、先進実用工具の発達した讃岐・阿波~ 縄文時代以前には、黒曜石による刃物が多用されていたと考えられ

          ジオ・ヒストリア風、道具学 ~阿波・讃岐編~

          正倉院に残る蕨手刀と、阿波鴨島出土の蕨手刀は同時代のⅢ型鋒両刃造りである。

          阿波説を裏付けるか 西日本で出土される蕨手刀は数少ない。 正倉院伝世刀の蕨手刀と近い造りのものが阿波鴨島(西宮古墳近く)から出土している。 鴨島出土品には鉄板の墓誌板が添えられていた。 阿波鴨島に持統天皇の藤原宮があったという説を裏付ける一つの根拠になると思いませんか。 鴨島町誌 より 徳島県の歴史 (県史シリーズ ; 36) より 福井好行 著 山川出版社, 1973 徳島の遺跡散歩 より 西宮古墳、敷島神社の紹介動画(GPW) 装飾大刀の変遷蕨手刀は7世

          正倉院に残る蕨手刀と、阿波鴨島出土の蕨手刀は同時代のⅢ型鋒両刃造りである。

          卑弥呼の時代の埋もれた阿波考古学成果

          「邪馬台国阿波説」の考古学的根拠となる文献・調査報告書を紹介します。 ここでは、「邪馬台国」と通称されるものは、東瀬戸内連合国家としての倭(やまと)政権と考え、のちに奈良へ遷都した大倭ヤマト政権の母体となるものとの考えに基づいています。 考古学の師匠から伝授されたもののうちから主なものをピックアップしました。 また、阿波弥生終末期考古学者のキーマンは、徳島県の古墳発掘を長年手がけてきた菅原康夫氏でしょう。彼の調査報告書・論文は読みごたえがあります。 楯築遺跡から纏向遺跡

          卑弥呼の時代の埋もれた阿波考古学成果

          前方後円墳成立期における墳丘石積みの系譜 ー萩原1号墓・西条52号墓の再評価ー 吉木誉絵 の紹介

          明治大学考古学研究室論文の紹介 実のところ、私の記事は、尊敬する考古学の師匠の仮説に沿ったものが多いのです。 以前の記事に、石室の構造などから卑弥呼の墓は萩原1号墓であるという仮説を書きました。 その師匠から紹介のあった明治大学考古学研究室論文を紹介します。 葺石構造=墳裾部の石積み構造の系譜を調べると、 萩原1号墓の葺石構造と纏向型前方後円墳である最古のホケノ山古墳が類似していること。 萩原1号墓の阿波、西条52号墓の播磨の古墳築造技術が奈良纏向に伝わったのではないか

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          ホツマツタエと阿波の関連

          あるホツマツタエの研究者に質問してみました。 問い)ホツマツタエは阿波発祥ではないですか? アワミヤは阿波のことではないですか? 答え)たしかに、ホツマツタエは初期にしばらく四国にあったようです。 ホツマツタエ前半にあたる天(あ)の巻、地(わ)の巻が完成した後、 四国のトツ宮(アワ宮)にて保管されていたといいます。 トツ宮(アワ宮)は通説では、香川の金刀比羅宮のことと言われているようです。 アワは四国(イヨアワフタナ)そのもののことを言ったようです。 ホツマツタエ発

          ここが出雲? 式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社「宅宮神社」には、いずも踊り、神代文字の版木がある

          宅宮神社(えのみやじんじゃ)神代7代の大苫邊尊が祭神 神代文字の版木が残っている いづも踊り(神踊り)が古くから続く もう、このあたりの海岸線一帯は古代の「いずも」、出雲神話の舞台に間違いないでしょう。 古代は、眉山の麓まで海岸線が迫っており、海人族、海部族、出雲族とよばれるような漁業・操船に長けた民が住んでいたそうです。 戦前くらいまでは、「いづも」と呼ばれていた伝承が残っていたそうです。 日本の他の地方で、これほど古い伝承が残っているところがあるでしょうか? い

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          邪馬台国畿内説・九州説に決め手なし。阿波説は?

          長年の論争が続く、邪馬台国畿内説・九州説に決め手がないことはみなさんご存じだと思います。 奈良時代の前、白鳳時代までは、阿波に皇都があったと考えています。 各説の弱点 畿内説の弱点:3世紀以前の古い古墳・遺跡が少ない。生活都市の形跡が少ない。纏向遺跡は4世紀以降と考えられる。(畿内説では無理に3世紀と主張している。) 九州説の弱点:魏志倭人伝の行程に合わせようと無理がある。 では、阿波説はどうかというと、 主な根拠は、youtubeのANYAチャンネルで説明されているの

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          阿波古代史を知るための公開古文書リスト、「阿波國風土記」他(更新2024.5.13)

          阿波邪馬台国説を提唱する、先人の調べた資料・痕跡をたどるために、 とくに、ネット上で無償公開されて読めるものを中心にピックアップした資料を列挙して紹介しておきます。 ※なにゆえ古代史であり、それぞれの内容の真偽は不明です。 私は、先人の説におおむね賛同しており、阿波から始まった政権が奈良平城京に遷都したと考えています。 ただし、近年までの考古学的成果を踏まえて、少し修正すべき点もあると思います。 道は阿波より始まる(岩利大閑著)道は阿波より始まる(その1,その2、その3

          阿波古代史を知るための公開古文書リスト、「阿波國風土記」他(更新2024.5.13)