阿波説(阿讃共立説)を説明する材料として、こんなに適した論文があったのか!
阿波・讃岐から奈良大和への進出は、庄内式から布留式土器への変化の頃(卑弥呼の次の男王の時代)に急速に進んだのではないかと考えています。それを示す根拠になりそうな論文が見つかったので紹介します。
阿波・讃岐から準構造船で河内湖に渡り、旧大和川下流域の水田を開拓し、奈良盆地へ進出した様子がイメージできます。(そうは書いてませんけど)
これに、阿波・淡路での鉄器生産、朱生産、銅鐸生産、小型丸底鉢の祭祀、西長峰遺跡の独立棟柱祭祀建物、などなど補強すれば、阿波説(阿讃共立説)を説明できそうです。
関西大学学術リポジトリですぐ読めます。
下記に、一部のみ抜粋して紹介しておきます。
ぜひ、リンクを貼った論文の中身をじっくり読んで欲しい。
集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究
-近畿における広域流通の視点から-
山田隆一 2019年
著者は大阪府で30年以上、遺跡の実地調査を見てこられたものと思われます。大阪府立狭山池博物館にいらっしゃるかもしれません?
※従来の讃岐系土器と庄内河内式甕の区別はどこまで正確なのだろうか?
阿波の加茂宮ノ前遺跡、淡路の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡では、弥生時代国内最大級の鍛冶遺構が見つかっています。ここから鉄器が供給されたのでしょう。