藤原京出土木簡「己亥年十月上挟国阿波評松里」の謎(これは四国徳島からの木簡か?)
有名な木簡の解釈について
『古語拾遺』などによると、四国の阿波忌部氏が黒潮にのって千葉に移住・開拓したことに由来して、房総半島に上総=安房の国ができました。
ここに、藤原京出土木簡のなかでも最も有名な木簡があります。
「己亥年十月上挟国阿波評松里」
定説の解釈では、己亥年は西暦六九九年(文武三年)、
「上挾国」は現在の千葉県南部「上総(安房)」とみなす。
「阿波評」はのちの安房国安房郡、安房国は七一八年(養老二)に上総国から分置される。
「評」は郡の前身で、七〇一年以後は「郡」と書くようになる。郡評論争で謎とされたこと=『日本書紀』の記述が七〇一年以後の書式で書かれていること、が明らかとなった記念碑的木簡とされる。
また、木簡の出土地が藤原京跡の根拠とされるものの一つである。
しかし、「上総(安房)」とみなすことは正しいのだろうか?
複製では、
どう見ても、<上挟?>、<上挾?> は漢字一文字ではないか?
新たな解釈仮説:
徳島県(阿波國)は律令制以前に、北部吉野川流域の『粟國』と南部那賀川流域の『長國』に分かれていたことがよく知られている。
粟國内の阿波郡地域を、『<?>國阿波評』と称したのではないか?
<?>國の表記は、<粟>に相当する漢字か、もしくは、隠國である阿波を指す特別な呼称・漢字であったのではないだろうか?
参考木簡例:奈良文化財研究所 木簡庫よりピックアップした
(藤原京出土木簡) 己亥年十月上捄国阿波評松里
(平城京出土木簡) 『阿波国阿波郡』は確かに存在した。
(藤原京出土木簡) 阿波國板野郡の例
(平城京出土木簡) 上総国阿波郡、上総国阿嶓郡の例
参考資料:奈良の藤原京跡とする根拠が謎?(阿波邪馬台国説)
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