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先代旧事本紀・国造本紀と阿波考古学・阿波古代史との整合を考える
ここでは、四国から始まったヤマト政権の広がりを推定するために、国造本紀を見てみます。
各地の国造はどの天皇により設置されたか
各地の豪族がヤマト政権の臣下=国造として連合していったと考えると、
まず、神武時代と崇神時代に顕著な変化があります。
この二人の天皇だけが和風諡号で「ハツクニシラス天皇」と記されています。
初代:神武天皇が始馭天下之天皇
第10代:崇神天皇が御肇国天皇
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神武時代(初代) ※ここでは、卑弥呼より後の3世紀後半~末と考えています。
この時代、本拠地・直轄地であった四国には国造は無い。必要なかったということだろう。
この時期の橿原朝は阿讃のどこかであると考えている。
この時代までに進出して来た畿内・東国の管理のために、
大倭(奈良県天理市)、葛城、凡河内、山代、伊勢、紀伊、建桁(宇陀)、志貴(奈良県磯城郡)、摂津(※京師⇒摂津職⇒摂津国造)、紀伊、に国造をおいた。
畿内から離れたところでは、宇佐(大分県)、素賀(遠江佐野素賀)においた。
この頃までには、徐々に、東海から北九州まで、の沿岸地域と交流していたことがわかる。大陸への経由地として、瀬戸内に面する宇佐も重要拠点であったのであろう。
大倭は畿内を示すのではなく、地方の国造と同じ位置づけであったのであろう。
神武時代の畿内進出以前に、畿内に進出して豪族をまとめていた勢力がいたであろう。”神武天皇”に象徴させた神武軍団とは、卑弥呼時代から続く阿讃播備の共立チームによる進出過程だったのではないかと想像している。
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(同意できない部分はあるが)主に土器研究者による試案として紹介
阿讃から畿内への進出がうかがえる資料。
崇神時代(10代) ※4世紀前半と考えています。
4世紀頃から全国に前方後円墳が大量に築造されていきます。
崇神時代には、南は阿蘇から山陰、越後、信濃、武蔵まで国造の設置地域が大きく広がります。
四道将軍を派遣しています。
西街道:阿蘇
山陰道:出雲、石見
山陽道:吉備中県(備後)、波久岐(周防)
南海道:波多(土佐国幡多郡)
畿内:なし
北陸道:久比岐(越後頚城)、高志深江(越後)
東海道:科野(信濃)
東山道:知知夫(武蔵秩父)、上毛野
なお、初めて本拠地の四国内に波多国造が設置される。
都のある阿讃から一番遠いところである。
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景行(12代)・ヤマトタケル・成務時代(13代) ※4世紀後半と考えています。
成務の時代には、一気に全国に細かく国造が設置される。
ヤマトタケルの逸話の関連しているのであろう。
四国では、本拠地中心部の粟、讃岐にはまだ国造が設置されず、
周辺の、長(阿波南部)、都佐、伊余が設置される。
応神時代(15代) ※4世紀末~5世紀初めと考えています。
この時代は、主に瀬戸内海側に細かく国造を配置している。
瀬戸内の人口増加が進んだことや、四国本拠地の運営を臣下達に任せていったのであろうか。
ここで初めて、お膝元の粟国造、讃岐国造が設置される。
※粟国は大化の改新後に長国と合併して阿波国となる。
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応神・仁徳の時代で国造はだいだい設置が終わってきている。
継体時代(26代) ※6世紀前半と考えています。
崇神時代4世紀から6世紀にかけてが、全国的に古墳築造の最盛期であった。
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薄葬令は、大化2年(646年)に発布された。
「先代旧事本紀・国造本紀と阿波考古学・阿波古代史との整合を考える」
という目的での調査・考察はつづくかも。。。