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綾部山39号墓発掘調査報告書にみる、阿讃播連合の「東瀬戸内型祭祀」



綾部山39号墓発掘調査報告書にみる阿讃播連合

有名な「現地公開サイト」より現地説明会資料

を引用させていただきます。


綾部山39号墓発掘調査報告書2005から


この調査報告書で中溝康則氏は、阿讃播連合の様子をよく説明しているので読んでおきたい。意外と当時の墳丘上の祭祀において播磨と吉備との関係は薄かったようだ。

綾部山39号墓発掘調査報告書 中溝康則


綾部山39号墓発掘調査報告書 中溝康則


中溝康則氏の文書を下記にそのまま紹介したい。簡潔に説明されており、大きな流れとしては分かりやすい。
ただ、(?箇所)3世紀までの存在感の薄い畿内内陸在地勢力が主導権をとったかどうかの根拠は分からず、瀬戸内を支配する阿讃播勢力が主導して、大和纏向(ホケノ山)に進出開拓して、東国との交流関係を深めていったとみなしても、考古資料との矛盾はないと考えている。

「ホケノ山古墳型祭祀」と「東部瀬戸内型祭祀」 中溝康則
大和ホケノ山早期古墳の鏡の副葬をみると、3面2種類の鏡が出土している。画文帯神獣鏡2面のうち1面は完形鏡で、後1面は破砕して副葬しており、内行花文鏡は、破砕して破片を被葬者の右側東部に供えたり、棺内に撒くという、完形型副葬破砕鏡・破鏡の副葬法が報告されている。これは、当時、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の鏡種によって副葬祭祀の違いが意識されていたことが推測される。
・・・
ホケノ山古墳被葬者埋葬の頃、鏡を破砕せず完形鏡のまま副葬する「大和型」祭祀と、副葬時に鏡を破砕する「東部瀬戸内地方型」の祭祀という、鏡に対して異なった祭祀があったとみられる。ホケノ山古墳の被葬者は、鏡副葬祭祀について「大和型」と「東瀬戸内型」二地方の祭祀を併祭したものと考えられる。
また画文帯神獣鏡の神仙思想を理解した三角縁神獣鏡前の初期ヤマト王権が、画文帯神獣鏡を特別の鏡として位置づけ、
「鏡祭祀」に関しては東部瀬戸内勢力にたいして指導権をとりながら(?)、あるいは
「垂下口縁装飾壺形土器祭祀」については伊賀上野勢力系の、
「鉄製品の副葬」については丹後・但馬等系の、
「銅鏃の副葬」については、濃尾・近江系の祭祀等
各地方でおこなわれていた祭祀を統合していったものと考えられる。このような「ホケノ山古墳型祭祀」であり、この祭祀方法は、竪穴式石槨を採用した前期古墳へとさらに継承発展していったと考えられる。
画文帯神獣鏡については、大和や阿波・讃岐の早期・前期古墳に集中して見られることから、近年、この鏡こそが卑弥呼擁立の時期に、邪馬台国王権が朝鮮半島にあった公孫子政権から入手し、邪馬台国連合の首長者に共同祭祀用具として配布された鏡ではないかと考えられるようになってきた鏡である。
綾部山39号墓から出土した鏡は、画文帯神獣鏡である。副葬のありかたをみると、鏡は第25図のように出土した。つまり、被葬者の埋葬にさいして、鏡を破砕する行為と破片を被葬者の右側東部と胸部に供える破砕副葬祭祀が行われている。ホケノ山古墳萩原1号墓出土からも画文帯神獣鏡が破砕されて出土したが、それらは3世紀初めに造られた画文帯同向式四神四獣鏡である。それに対して綾部山39号墓の鏡は、2世紀第3四半期に鋳造された、画文帯環状乳三神三獣鏡であり、製作年代の古い鏡である。
綾部山39号墓の鏡の副葬祭祀について考えた場合、画文帯神獣鏡の扱いかたがホケノ山古墳の副葬祭祀と根本的に相違していることが分かる。
・・・
鏡を割らなくなるのは、「ホケノ山古墳型祭祀」が確立してからのことであると考えるのである。そして、鏡を割って副葬していた「汎北九州・瀬戸内型祭祀」はその後、不採用となり、鏡を割らない大和の「画文帯神獣鏡祭祀」へと統一されていったと考えられる。鏡を割らないという考えはその後、「神仙思想」と「辟邪」という思想のもとに成立した三角縁神獣鏡へと継承発展していく。
・・・
私は、「ホケノ山古墳型祭祀」という祭祀が地方へ受容されていくという、儀式=精神的内面性が波及していくことも重要な要素であることを重視すべきこととして提唱したい。

綾部山39号墓発掘調査報告書 中溝康則


祭祀用小型丸底鉢とみられる土器



阿讃播から大和への仮説



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