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キリスト教は禁欲主義なのか Ⅰペテロ4章2節

2022年6月12日 礼拝

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ
4:2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。

εἰς τὸ μηκέτι ἀνθρώπων ἐπιθυμίαις ἀλλὰ θελήματι θεοῦ τὸν ἐπίλοιπον ἐν σαρκὶ βιῶσαι χρόνον.

Markus SpiskeによるPixabayからの画像



| はじめに

古代ローマの奴隷制度 ────それは単なる身分制度以上の、人間の魂を縛る鎖でした。前回、私たちはⅠペテロ4章1節を通じて、この問題の本質に迫りました。表面的な身分や勝敗を超えた、より深い人間の苦しみの源に『罪』があることを見出したのです。

では、神はこの状況にどう応えたのでしょうか。キリストの受難と復活という、歴史を動かす出来事を通じて、神は人間社会に介入し、縛られた心に解放をもたらしていきました。人は神のかたちに造られながら、なぜ苦しみの中に置かれるのか。その答えを求めて、私たちは『罪』という人類共通の課題に向き合うことになります。

| こうして

『目的を指し示す言葉 - εἰς(エイス)の意味するもの』

ギリシャ語の前置詞εἰς(エイス)には、深い神学的意味が込められています。この言葉は単なる方向性を示すだけでなく、人生の根本的な転換点を表現しています。それは、まるで川の流れが変わるように、人の生き方の方向が完全に変わることを示しているのです。

ペテロが2節で描く変化は、実に劇的です。「欲望のため」という言葉で表現される人間の制御できない渇望から、「神のみこころ」という完全な計画と導きへの転換を示しています。ここでの「もはや~ではなく」(μηκέτι/メーケティ)という表現は、過去との完全な決別を宣言する力強い言葉となっています。

この変化は、自己中心的な生き方から神中心の生き方への転換を意味します。それは単なる行動の修正ではなく、存在の根本的な方向転換を示しているのです。ペテロがここで強調するのは、クリスチャンの生き方が単なる道徳的な改善ではないということです。それは、人生の座標軸そのものが変わる体験なのです。εἰς(エイス)は、その新しい方向性を指し示す道標として機能しています。

「神のみこころ」に従って生きるということは、神の視点から物事を見るようになり、永遠の価値観に基づいて決断し、隣人への愛を実践する生き方を選ぶことを意味します。このように、εἰς(エイス)から始まる2節は、クリスチャンの歩みの本質を端的に表現しているのです。それは、自己中心的な欲望の奴隷から解放され、神の計画の中で真の自由を見出していく道筋を示しています。

人生の目的地を指し示すεἰς(エイス)は、単なる文法的な前置詞を超えて、信仰者の人生における根本的な方向転換を象徴する重要な言葉となっているのです。この小さな前置詞が、神の導きによる大きな人生の転換を物語っているのです。

| エピスミアイスへの志向

『欲望の深み - 古代ローマ社会におけるエピスミアイスの実相』

ἐπιθυμίαις(エピスミアイス)は、欲望の複数形として用いられることで、人間の欲望の多面性と複雑さを表現しています。この言葉が内包する意味の広がりは、古代ローマ社会の実態を見ることでより鮮明になります。

ローマ社会における欲望の表れは、実に多層的でした。まず、「パンとサーカス」に代表される政治的な欲望操作の構造があります。権力者たちは、市民の政治的関心を逸らすために意図的に快楽を提供しました。これは単なる娯楽の提供ではなく、人々の精神を麻痺させ、批判的思考を失わせる巧妙な支配のメカニズムでした。

公衆浴場文化は、この欲望の社会化を如実に示しています。床暖房を完備し、図書館や食堂を併設した施設は、一見文化的な装いを持っていましたが、実質的には官能的な快楽を追求する場となっていました。六皿の料理が無償で提供され、そのうち二皿が肉料理であるという贅沢さは、当時の社会の享楽的な性質を物語っています。

貴族階級の宴会文化は、欲望の歪みをより極端な形で表現していました。使い捨ての衣服を着用し、横たわって食事をするという姿勢自体が、労働から完全に切り離された享楽的生活を象徴しています。ウィテリウス帝の献上した料理 - ベラの肝臓、キジと孔雀の脳みそ、フラミンゴの舌、やつめうなぎの白子を混ぜ合わせた一品は、もはや味覚の満足を超えた、欲望の誇示としての性格を持っていました。

さらに特筆すべきは、意図的な嘔吐の習慣化です。これは単なる生理的な現象ではなく、快楽を極限まで追求するための計画的な行為でした。鳥の羽や吐瀉剤を準備していたという事実は、この行為が社会的に制度化されていたことを示しています。クラウディウス帝がオナラの自由を法制化しようとした逸話は、身体的欲求の完全な解放が社会的理想として認識されていた証左です。

性的な放縦も深刻でした。男女の不貞が日常化し、それに伴う堕胎や子捨ての習慣化は、生命の尊厳さえも快楽の前には軽視されていたことを示しています。貴婦人たちの化粧に要する三時間という時間と六人の奴隷の存在は、外見的な欲望の肥大化を表しています。

コロッセオでの見世物は、この欲望の究極的な表現でした。五万人以上を収容する施設で、人間や獣の命を賭けた闘いが「娯楽」として受容されていたという事実は、社会全体が生命の尊厳を見失っていたことを示しています。観客の親指の向きで生死が決まるという残虐な習慣は、人間の尊厳の完全な喪失を表しています。

このような社会で、ペテロが指摘する「エピスミアイス」は、単なる個人的な欲求の問題ではありませんでした。それは、社会システムとして制度化された欲望の連鎖、人間の尊厳を踏みにじる価値観の体系全体を指していたのです。奴隷制度による人権侵害、生命の軽視、快楽の追求による精神の退廃 - これらすべてが「エピスミアイス」という言葉に込められた否定的な意味を形成していました。

この背景において、「神のみこころ」への転換は革命的な意味を持ちます。それは単なる個人的な生活改善ではなく、社会の根本的な価値観の転換を求める預言者的な召命でした。人間の尊厳を回復し、真の自由をもたらす神の計画への参与は、当時のローマ社会において、まさに反文化的な生き方の選択を意味していたのです。

『欲望の代償 - 奴隷制度が映し出す人間社会の歪み』

古代ローマ社会における贅沢な生活様式の背後には、深い構造的な問題が潜んでいました。特権的なローマ市民一人の豪奢な生活を支えるために、平均して10人もの奴隷が必要だったという事実は、この社会の根本的な歪みを如実に示しています。

この構造的な不均衡は、単なる経済的な格差以上の意味を持っていました。ある者の「自由」が他者の不自由の上に成り立つという矛盾は、人間社会の根源的な問題を提起しています。奴隷制度は、「解放」という概念自体の意味を問い直す必要性を示唆していたのです。

多くの奴隷たちが夢見た「解放」とは、実質的にはこの抑圧的なシステムの中での立場の変更に過ぎませんでした。奴隷から解放されてローマ市民になることは、抑圧される側から抑圧する側への移行を意味していました。これは真の意味での解放とは言えず、むしろ罪深い社会構造への加担を意味していたのです。

ペテロがここで示す視点は革新的です。彼は、真の解放とは社会的地位の変更ではなく、この歪んだ構造そのものからの解放であると説きます。行き過ぎた欲望への執着から解放されることこそが、真の自由への道だと示唆しているのです。

この文脈において、信仰による解放は深い倫理的意味を持ちます。それは単に個人的な救いの問題ではなく、他者の犠牲の上に成り立つ社会構造全体への批判的な視座を提供します。良識ある人間であれば、自分の贅沢な生活が多くの人々の涙と苦痛によって支えられているという事実に直面したとき、そのような「解放」を望むことはできないはずです。

ペテロの教えは、当時の社会に対する預言者的な批判であると同時に、現代社会にも響く普遍的な問いかけを含んでいます。一部の人々の豊かさが他者の犠牲の上に成り立っているという構造は、形を変えながらも現代社会にも存在しているからです。

真の解放とは、このような不正な構造から距離を置き、神のみこころに従って生きることを選択する決断にほかなりません。それは、社会的地位や物質的な豊かさではなく、人間の尊厳と真の自由を追求する生き方への転換を意味しているのです。このようなペテロの視点は、今日の私たちにも、自分たちの生活様式や社会構造を批判的に見直す重要な視座を提供しています。

『解放後の落とし穴 - 人間の心に潜む欲望の連鎖』

人間の良心に期待を寄せることの限界は、歴史が繰り返し示してきた厳然たる事実です。豊臣秀吉の例は、この人間の性質を象徴的に表しています。

彼は、幼少時豊臣秀吉は織田信長の後を継いで天下人となった人物です。ところが、その子供時代は尾張の土豪の奴婢(ぬひ)という説があります。その奴婢とは、いわゆる奴隷です。彼は、売買されるような幼少期を過ごし、想像もつかない貧困生活を送っていたと言われております。その才覚を認められ、天下人へと昇進を遂げていく立志伝中の人となります。

彼は、そうした家柄もなく貧しい出身であったにも関わらず、自分が特権を握ると、人を隷属させる側に立ちました。奴婢という最下層から天下人にまで上り詰めた彼の人生は、一見、立志伝として称賛されるべき物語のように見えます。しかし、その権力掌握後の行動は、人間の心の深い闇を照らし出しています。

かつて自身が経験した隷属や貧困の苦しみは、他者への共感や理解を育むどころか、むしろ権力を握った際の抑圧的な支配を正当化する根拠として転化されていきました。「自分はここまで苦労してきたのだから」という論理は、新たな抑圧を生み出す源泉となったのです。

この現象は古代ローマの解放奴隷たちにも見られました。市民権を獲得した彼らの多くは、かつての自分の立場を顧みることなく、新たな奴隷所有者となることを当然の権利として受け入れていきました。これは単なる個人の性格の問題ではなく、人間の心に深く根ざした欲望の本質を示しています。

現代社会に目を転じれば、この構造は依然として私たちの周りに存在しています。会社組織における昇進の過程で、かつての若手社員時代の経験は、部下への思いやりや理解につながるどころか、むしろ「自分も苦労したのだから当然だ」という新たな支配の論理へと変質していきます。

ここでペテロが指摘する『欲望に生きる』という状態は、単純な欲求の充足以上の意味を持っています。それは、自己の経験を都合よく解釈し、新たな支配や抑圧を正当化する思考パターンの全体を指しているのです。上昇志向における自己追求は、往々にして「苦労の対価としての権利」という歪んだ論理によって正当化されます。

このような視点から見るとき、ἐπιθυμίαις(エピスミアイス)という言葉が示す「様々な欲望」は、社会的地位や立場を超えた、人間存在の根源的な問題を指し示していることがわかります。それは、ローマ市民であれ奴隷であれ、人間が陥りやすい精神的隷属状態を表現しているのです。

解放や昇進という外面的な状況の変化は、必ずしも内面的な自由をもたらすものではありません。むしろ、新たな立場における権力の行使は、より深い欲望の奴隷状態を生み出す可能性があります。この悪循環から真に解放されるためには、単なる社会的地位の変更ではなく、欲望に対する根本的な態度の転換が必要となります。

ペテロの教えは、このような人間の本質的な弱さを見据えた上で、神のみこころに従う生き方を示しています。それは、自己の経験や苦労を他者支配の根拠とするのではなく、むしろ謙虚さと共感を育む糧として活かすことを求めているのです。この視点は、権力や地位の変動にかかわらず、私たちが常に直面する精神的課題を提起しているといえるでしょう。

豊臣秀吉像(狩野光信画)


|神のみこころに生きる花 - 真の解放と喜びの道

人間の欲望の奴隷から真に解放される道は、私たちの想像をはるかに超えた場所にありました。それは、イエス・キリストの受難と復活という、神の驚くべき知恵によってもたらされた道です。ここで重要なのは、この解放が単なる禁欲主義や自己抑制ではないという点です。

「神のみこころのために過ごす」という生き方は、否定的な「~をしない」という禁止事項の集積ではありません。それは、キリストの受難と復活の力によって与えられる、まったく新しいいのちの様式なのです。ペテロが「キリストは肉体において苦しみを受けられた」と強調するのは、この転換が人間の努力や良心、経験だけでは到底達成できないものだということを示すためでした。

私たちの人格は確かに、経験や能力、知識によって形作られています。しかし、それらは土台に過ぎません。その上に、信仰という美しい彩りが加えられることで、私たちの存在は真に輝きを増していくのです。それは、キリストが常に私たちとともにあって、絶えず働きかけ、導いてくださる恵みの結果です。

ここにある喜びは、欲望の充足がもたらす一時的な満足とは本質的に異なります。それは、神のかたちとして造られた人間が、本来の姿を取り戻していく喜びです。退廃や放蕩、贅沢という言葉とは無縁の、深い充実に満ちた生き方です。

マタイの福音書で語られる「野の花」の比喩は、この真理を鮮やかに描き出しています。ソロモンの栄華さえも及ばなかった花の美しさ。その秘密は、創造主なる神との密接なつながりにありました。今や、私たちもまた、聖霊を宿す器として、この世界に遣わされた「野の花」となっているのです。

栄華を誇る現代社会において、私たちはキリストの香りを放つ小さな花として存在しています。その存在自体が、神の驚くべき恵みの証となるのです。欲望の奴隷から解放され、神のみこころに生きる者として、私たちは今、かつてのソロモンをも超える輝きを身にまとっているのです。それは、自分の力によってではなく、ただキリストの受難と復活の力によって与えられた特権なのです。

この視点に立つとき、日々の生活の一つ一つが新しい意味を帯びてきます。それは、欲望の連鎖から解放された者としての、真の自由と喜びに満ちた歩みとなるのです。私たちは今、この世界に遣わされた神の小さな花として、静かに、しかし確かに、キリストの香りを放つ存在となっているのです。アーメン


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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。