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長生きの秘訣は自分軸で生きることなのかな?〜98歳と97歳の老夫婦から考察〜食生活について
私の母方の祖父母の話である。祖父は98歳で祖母は97歳である。(2024.12月時点)
今は娘(私の母)と3人暮らしである。
7〜8年ぐらい前からかな。父と母はほぼ介護のため別居生活のようになったが、協力もしてくれたり、たまに行き来しながら、いい距離感でやっているようだ。
祖父母は今だにちゃんと歩けるしトイレも手すりを用いながら自分の足でいける。
毎食ご飯を食べて昼寝をしたり好きなテレビを見たり何十年も続いてる生活スタイルは変わらない。ここで母は介護をしている。
2人の食事の準備とか洗濯、週一回の昔ながらのかかりつけ医者診察などのようだ。
祖父はよく食べるし、背が小さい方だけれど(150センチくらい)どしんとしている。たまに便が出ない時があるらしく、大騒ぎする。そんな時にマグミットという薬を飲むようだ。じいちゃんは食後に胃薬を飲んでいた。昼だけだったかな。昔ながらの白い袋に顆粒。
じいちゃんは今で言うと病名つけられそうだけど、コミュニティがあまり好きではない。得意ではないけど老人会の会長はしたことあったし、実は得意だったのかも知れない。ただじいちゃんは人と飲みに行くとか、友達らしき者とつるんだりしたところを見たことない。
祖父の70歳の頃の日課を思い出してみる。
朝は3時半から4時に目覚める。
60代までは祖父単独か、夫婦で阿武隈川沿いのサイクリング・ロードを毎朝さんぽしていた。1時間弱のコースだろうか。
帰ってきたらご飯を食べる。
朝ごはんの内容は、柔らかめに炊いた麦ごはん、焼き魚、佃煮(常備)、ぬか漬け、味噌汁(卵入り)となる。食事前に小さい皿にじいちゃんが、しそニンニク2つと梅の煮たやつ、ミキプルーンをひとさじづつ分ける。これも習慣。
朝ごはんが終わったら焼き鳥屋の仕込みをする。使っているのは豚肉である。鶏より豚派らしい。祖父はレバー担当。こたつのテーブルに大きな木のまな板が2つ、じいちゃんはレバーの筋や血の塊を取り除き、四角に切り分けて串に刺していく。
祖母はカシラ(豚の頭の肉かな。)とかツンゲ(ねぎまかな)とか刺していく。ダルムっていうのは豚の腸だったかな。茹でたやつを刻んで刺していく。(タレも定期的に仕込む)
焼き鳥刺しが終わるとまったりタイム。
祖父は缶カラに入ったビスケットや黒糖かりんとうをいくつか食べる。飲み物は常に温かい緑茶である。
祖父はこたつの座椅子席から別角度横に移動してそこには昼寝布団がひかれる。横になりながら新聞読みがはじまります。虫眼鏡で新聞をくまなく読んでいる。そして昼寝する。
さて11半になると昼ごはんだ。内容は軽めになる。麦ごはんに味噌汁、魚の煮付けだったりする。月に1〜2回は昼にパンを食べていた。ダブルソフトでした。バターとはちみつで食していました。それ以外はたまに間食でピーナツパンとかアンパンが5連で入ってるようなやつを食べることもあったな。
午後からはテレビを見たり、昼寝をしたり、14時ぐらいには尺八を嗜んでいた。秋になると祭りの横笛もふく。(70代後半に脱腸という病気をして尺八や横笛を引退した)
夕方16時ごろ焼き鳥屋の準備をする。
炭を起こす。湯を沸かす。湯豆腐の準備とかしとく。17時ぐらいから暖簾を出す。
祖父は焼き鳥を黙々と焼き、あまりお客さんとはしゃべらない。常に平静だ。注文の名前ぐらいしか言わない。祖母は冷蔵庫近くの腰掛けに座り、準備しといたお通し(ぬか漬け)をだしたり、日本酒(栄川)やビール、モロキュウやトマト、湯豆腐などお客さんの注文に応じる。品数は焼き鳥とこんな感じである。焼き鳥屋は遅くとも22時とかには閉める。
60代まではお風呂が家に無かったので近所の銭湯に毎日通っていた。だいたい夕方に行っていた。じいちゃんは自転車に乗る人だった。昔は警察も厳しくなかったから、ばあちゃんを自転車の後ろに乗せて銭湯に通っていた。
毎年10月になるとお祭りの太鼓の練習があるから私は祖父母の家に宿泊していた。祖母と手を繋いで銭湯に行き、知らないおばあちゃんと話したりとか、祖母の背中を洗ったりする。
体育の日までそれは続き、そんな生活が好きだった。祖父は横笛、私は太鼓を叩く。練習が終わると町内のおじさんたちはお酒を飲んで楽しそうに談話していた。祖父は練習だけ参加したら帰って焼き鳥屋の続き。一緒に飲むことはなかったな。
そうだ。夜ご飯は18時ぐらいにばあちゃんが店番してる間に食べていた。相撲を見ながら晩酌する。日本酒の熱燗を1杯。
夜は刺身だったりする。あと煮魚だったり。焼き魚だったり。あと味噌汁とご飯。
基本肉は食べない人たちだった。たまにレバーは食べていたなぁ。
だいたい22時には寝てました。1階が焼き鳥屋で2階が住まいで祖父は3階の屋根裏部屋で寝ていた。祖母も屋根裏に寝てたけど、梯子を登らなくなり70代からはこたつの部屋の2階に布団を敷き寝ていた。トイレは1階の階段おりたとこ。
そしてまた3時半とか4時に目覚める。そんな感じでした。
今(2024年)は焼き鳥屋は娘(わたしの母)が継いで営業している。生活スタイルはそれほど変わらないが、ご飯を作るのは娘になり、長屋の隣を2軒買ったから(数年かけて祖母が買い足してリフォームしてお風呂とトイレももう一つ作った。)壁を抜いて部屋数が増えた感じになった。
今は2人とも夜はベッドに寝ている。トイレは変わらず1階に降りないといけない。
母はこまごまとした介護をしていた。祖父がわりとご飯も食べるから、毎日ご飯の支度やら、便が出ない時の大騒ぎとか、今日は風呂だ〜!とか、刺身買ってきて。とか、診察行くぞ〜。とか。たぶんそんな感じ。
私が福島に帰った時は、買い出しの手伝いとか、焼き鳥屋の洗い物とか、焼き鳥刺しを手伝った。あと洗濯とか。いちおうヘルパーさんもお風呂の介助とか朝の洗濯干しとかしてくれたりもあったから助かってた。
最近はヘルパーさんも費用がかかるから母が自分でやる分、増やしたみたいだったなぁ。
老老介護だからね〜という母も71歳になった。あっという間に歳をとったようにも感じる。
私も育児が落ちついたら介護の手伝いをしようと思う。子どもの頃、祖母に言ったんだ。
『ばあちゃんは働き者だから100歳まで長生きするよ、きっと』
母は離婚して、母子家庭時代があったから祖母がしょっちゅう来てくれてました。病児育児とかしてくれたりね。だから私は祖父母が大好きだった。社会人になって勤務先が近くになってからは祖父母の家に間借りして一緒に住んでいました。あの4〜5年は大切な思い出だなぁ。
原発事故がなければ今も一緒に住んでいただろうなぁ。
題名とややズレがあるけど、つらつらとじいちゃんの話多めで綴らせていただきました。
まとめると
じいちゃんは食べること、新聞読み、尺八とか民謡とかが好きで、テレビが好きで、自分のペースを崩さない生き方をしてると思った。ともだちはいなくても大丈夫なんです。おわり。
今年母と買い物に行った時の写真。
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たぶん久しぶりだったんじゃないかな。
大正(ギリギリ)〜昭和〜平成〜令和を生きてこられたんですよね。すごいなぁ。
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