ルーシー

奇跡講座(奇跡のコース)/ACIM コース学習者 赦しの実践記録

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奇跡講座(奇跡のコース)/ACIM コース学習者 赦しの実践記録

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イエスの伝えたい「正直さ」とは? 闇をありのまま受け入れる

奇跡講座などの真理の言葉を学び 「真理を生きたい」と霊性の道に入ることを決めた人達は怒りや裁きなどの攻撃心を抱いたら 「またやっている」などと自分を咎める思いが出てきて自分の行動や考えを嗜めることをしてしまいます コースの学習者であれば 「別の選択肢」があることを知っているからそれを選びたいという思いが湧き上がり 自我でなく聖霊を選ぶためにこの怒りや攻撃心を手放そうとしてしまうのではないでしょうか? 恐ろしい考えを持っている罪悪感に飲み込まれる怖さがそうさせてしまうのだと

    • 真の赦しの視点

      この世界を真の赦しに使う目的を持って見るなら どこから世界(自我)を見るかがとても重要だと気がつきました 心からだよね? もちろんその通りです この世界は自分の間違った心を写し鏡のように見せてくれています 投影のメカニズムが発動されている状態です 被害者意識が強い人 自分勝手な人 暴言吐く人 嘘をつく人 盗みをする人 人を騙してお金を奪う人 人をあやめる人 普通の人(でも何かが間違っているように見える人) まぁとにかく自分の価値観に無いことしている人達をわんさか目にし

      • 覚者の言葉 ヘルメス・J・シャンブさん

        こんな方がいるのですね 心の仕組み(真理)をここまで言語化できていることに驚きです Kindleにも著書があったので読んでみたいと思います

        • 進歩した神の教師について考えてみる 世界を変えようとしない=神の救済計画への信頼

          まずは神の教師と神の使者についての関係性について 兄弟は闇を照らすサーチライト的な役割です 自分の内側に必死で守っている闇(勘違い)を浮かび上がらしてくれる役割をしてくれています 「あなたにその考えは相応しくない」 と神からのメッセージを代弁しにこの世界に目の前に現れる 『神の使者』=嫌な人(赦しを運んでくるもの) としての役割が与えられています そしてその神の使者(自我であり神の子)のもつ闇は 自分一人では解き放つことはできないので 神の教師(赦しをするもの)が必ず必

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        イエスの伝えたい「正直さ」とは? 闇をありのまま受け入れる

          『赦し』をどこまで適応するのか 

          今考えていることは 教師のためのマニュアル 『信頼の深化』のセクションに書かれていることに通ずるのかもしれません 兄弟を肉体と見る=恐れの象徴と見る=攻撃=死の願望 肉体と見るとは死を願望していること 私や他者を肉体とみなす以上真我は見出せません では 「真我を見出したいのか?」と問わなければなりません 赦しをすることの意味を考えると‥ 人生の為に使うのか? それは自分を満たすため自我の獲得思考を源にして赦すことです 目覚めのために使うのか? それは全てを手放すため

          『赦し』をどこまで適応するのか 

          『執着』が作る世界 心の仕組み

          『執着』とは変化を受容できず 今のまま変わらずにいることを望むということ 私達人間は 始まりがあり終わりがある変化のあるストーリーの中に肉体を持ち生きている(と思っている) 変化の世界で変化を拒絶していることはどういうことなのか立ち止まって考える必要がある 肉体の変化 考えの変化 環境の変化 「今」起きている自分の全てを受容できず以前の何かに執着する思いがわずかでもあるのなら 葛藤を引き起こし それが世界に投影される 「私」という自己像は不完全な存在 考えや感情はコ

          『執着』が作る世界 心の仕組み

          『愛は勝つ』 KAN

          今朝なんだか気分がスッキリしていた 何故かな‥ 自分の闇と対峙することで本心が語り始め 少しづつ癒しが起きているのかもしれない 職場のTVから懐かしい曲が聞こえてきた 癌で亡くなり一周忌を迎えたKANさんの『愛は勝つ』 今でも不思議でたまらないのだけど 私は自分自身と繋がってから その時の落ち込んだ気分を励ましてもらったり これから起こる出来事を予測したような歌が聴こえてくる事が多い 今回もきっとそう 愛は決して勝ち取るものではない 愛はただ当たり前にここにある けれど

          『愛は勝つ』 KAN

          揺らがない自分とは

          誰かの教えや言葉(崇高な叡智であっても)で救われたような気がしても それで構築された土台はとても不安定ですぐに脆く崩れ去るものにしかならない 『奇跡講座』の内容ですらも 外側の言葉と自分の内側から湧き出た言葉 私を真の私自身であると確信し 揺るがない信念にまで根付かせることができるのは 自分から湧き出た言葉(聖霊の答え)によって今の自分を導くことでしかない これまで不安でいっぱいな時 何度も何度も崇高な教えや誰かの言葉に頼って自分を安心させようとしてきた 今思えば 自

          揺らがない自分とは

          愛を見失っても、失う人はいない

          愛を見失うことはある でも失うことはない 見失うことすら絶対の愛の中で起きている 見失っている時 私は不安になり絶対の愛を信じることが難しくなる 愛に触れている時 気づいている時 私はその優しさに包まれている感覚を感じる ホッとできる 安心できる 癒されている 喜びがある 本物の感覚 その時間こそこの世界で感じれる神の愛なのだと理解できている 人間意識では愛は見失しなわれている 何かを(愛の代替)求めてやまない 愛の代替え(偶像)を求める でも真実の愛になるものなど何

          愛を見失っても、失う人はいない

          神の愛とは自立の促し 必要なものは与え尊重し見守るだけ

          私達の真の目的は この世界に物質的な存在である人間として在るのではなく 霊としての本当の自分を思い出すこと それがカリキュラムのゴールです 私達は一つ一つの魂であり もっと深く自分を思い出すなら 一つの神という想念です 自分が誰だったかを思い出すこと それを達成するまでは 何を求めているのか分からないけれど求めずにはいられず 的外れなものばかり求めてしまいます ゴールの達成に必要なものは全て与えてもらっています それは 真理の概念である『奇跡講座』という知識 『赦し』

          神の愛とは自立の促し 必要なものは与え尊重し見守るだけ

          強烈な(嫌な)体験✖️自責思考✖️リラックス

          タイトルの公式は何を表しているかというと『覚醒』『目覚め』です もちろん他にも数多のプロセスがあると思います 私的に上の公式がピタっときました 自責思考は自罰的態度ではなく 自分で責任を取る態度 自分を前向きに向かわせる態度のことです これまでの他責(他罰)思考を止め 考え方の転換が内側に起きるということです 奇跡講座を学ぼうかという人達は 人生で起きている体験が もううんざりだと 他責思考→自責思考への転換を果たしている方は多いように見受けますが まだ全ての自己責任を

          強烈な(嫌な)体験✖️自責思考✖️リラックス

          自我をどうしたい? 心の自由とは選択の自由

          私たちの目に映るもの 聴こえるもののほとんどは自我の象徴として入ってきます 自我の象徴の知覚から湧き起こる考え(願望)は全くの間違った意味のないものです(そうは思えませんが‥) 『奇跡講座』が教えてくれている赦しで見るなら 「それを消す」ではなく 「それを超える」 です 超えた時に自我の象徴は消えるかもしれないし消えないかもしれない それはどっちでも良いものとなります もう気になりません 気にならないふりは 自我の得意とするところなので そこには正直さが必要です 真

          自我をどうしたい? 心の自由とは選択の自由

          神の教師を信用する 耳を澄ませて内側の声を聞こうとする態度

          神の教師とは 親鳥が卵を温めている姿そのもの 自我はなぜか自分は卵の殻のようなものの中にいると信じている そこで孤独を感じている 殻を身にまとって同じ形をしている仲間を探す そのうち殻が邪魔に感じて割る方法を探し始める 自分で割る方法などないから 自分では割れないと悟る必要がある 諦める必要がある 諦めるとはリラックスするということ 親鳥の暖かい羽毛は愛の象徴 その中で卵は殻が破れるその時を待つ 自分から破ろうとしなくても結局は破れる 愛に暖めてもらっているのだから

          神の教師を信用する 耳を澄ませて内側の声を聞こうとする態度

          あらためて『愛』って何だろう? 

          この世界の愛とは 優しさを与えてあげることかな? 例えば (愛を持って)言葉や態度で伝えること (愛を持って)お世話してあげること (愛を持って)助けてあげること (愛を持って)教えてあげること (愛を持って)育ててあげること (愛を持って)見守ってあげること (愛を持って)気にかけてあげること etc‥ そしてこれらを受け取ること 〇〇してもらうこと 「〇〇してくれたら私は安心で満たされる」 やはり誰か(肉体)の行為からしか感じられないもの そして前提が優しさである必

          あらためて『愛』って何だろう? 

          自動反応的に自己否定してしまうのは自分(個性)を知らないから 実用的な見地から個性を知る

          私は身近な人達の理解できない言動や行動をエニアグラムを知ることで心理的負担から少なからず解消された経験があります エニアグラムなどの性格診断ブームがまた自分の中で起きています これは占いとは違い 自分だと感じている『個性』の部分から自分を客観的に分析することができるので面白いです 自分や他者の個性をとことん知るなら 自分の嫌っている部分や 他者に見る自分が持ち合わせてなくて全く理解できないものを 排他的に恐れて ただ目の前の人に投影して 自分目線で裁いてるいるだけなのだと

          自動反応的に自己否定してしまうのは自分(個性)を知らないから 実用的な見地から個性を知る

          世界の中で本物の『愛』を見つけることは宝探しのようなもの(ハードモード設定)

          人生の究極の問いとは 『愛』を探したいか、探したくないか? だと思う この難しい(と思ってる)ゲームに参加したいかしたくないか? どちらでも自由に選ぶことができる 選ぶのは自我ではなく霊としての私 自我は個人の人生を意味あるものにしたいのでこの宝探しは大好き 人間「愛」、隣人「愛」でも癒されるし与えてあげることもできる それは素晴らしいこと‼︎ でもそれは『愛』探しゲームのイージーモード設定 ここもクリアするのは難しい人(魂)もいる 私の父のような自分の中にある愛

          世界の中で本物の『愛』を見つけることは宝探しのようなもの(ハードモード設定)