『赦し』をどこまで適応するのか
今考えていることは
教師のためのマニュアル
『信頼の深化』のセクションに書かれていることに通ずるのかもしれません
兄弟を肉体と見る=恐れの象徴と見る=攻撃=死の願望
肉体と見るとは死を願望していること
私や他者を肉体とみなす以上真我は見出せません
では
「真我を見出したいのか?」と問わなければなりません
赦しをすることの意味を考えると‥
人生の為に使うのか?
それは自分を満たすため自我の獲得思考を源にして赦すことです
目覚めのために使うのか?
それは全てを手放すために真理を源に赦すことです
自分で決めれるのか?
決めれないのか?
‥‥
カリキュラムは決まっているので
体験は勝手にやってきます
したい体験は選択できません
まだ人間意識が優位である以上
これまで培ってきた価値判断で体験を通して苦痛を感じ
『赦す』選択をしながら目覚めの為だけに赦しを使うことへの決心が揺るがなくなっていくのかなと思っています
今は自分の価値判断の基準の中で不要なものを選別して赦しに取り組み
そうすることで人生が生きやすくなり自分らしさが発揮できるようになっているように感じています
「何を(間違っていることさえ)やってもいい」
という許可が自分に対してあるので自由を感じています
おかげで迷路に迷い込んでいたような人生から
人生の中で何を望んでいるのか明確に分かるようになり
モノトーンの世界から色鮮やかな世界へ変化しました
この幻想世界ならではの体験です
この実感は目覚めの前には通る道なのかもしれません
本当の目覚めはこれから行く道なのでしょう
この幻想世界でどんなに自分らしく生きている実感があったとて
真の幸せには到達できないことも分かっています
全ては虚い
全ては失うものです
今本当に目覚めたいのか?
人生を終わらせる決意があるのか?
と問われるなら
「ないです」と即答できる自分がいます
夢の中にいる自由は与えられているので私はまだ眠っていたいようです
それすら許可を与えています
何の罪悪感なしに
この世界で興味関心事がある方が良いと思っています
『奇跡講座』や『悟り』もその一つ
目覚めに向かう時は外側の世界に何一つ執着することなく
何にも関心が無くなるような気がしているので今は無理です
今後の流れにお任せです
赦しは目覚め前にこの世界で自我として素晴らしい体験ができるツールとしても使えることが分かりました
それは一時のご褒美のような時間なのかもしれません
本気で『赦し』を使う時が来るための練習をしているだけなのかもしれません
目覚めに向かう時は
思っている以上にキツイ状況が用意されているのかもしれません‥
それとも学びと共に
自然と関心ごとは心から離れていくのか‥
そうなったら嬉しいけど
「これでもまだ目覚めを選ばないの?」
という状況を体験するまで本気(意欲)は出せないのです笑
体験はやってくる訳なので
じゃあやっぱり自分で選ぶことではないのかもとまた思考がループしてしまいます笑
思考すら勝手に湧いて出てきているもので何の意味もありません
自我のものです
そこに囚われて考えている時間すら楽しく感じている私がいます
赦しの人生とは
こんな感じなのかと思っています
自我思考で生きてきた苦痛体験が蓄積され感情と思考を正しい道標に使える程に精神が成熟する(前世含め全ての人生を通して)
↓
聖霊との盤石な繋がりを与えられカリキュラムの変更が起きる
↓
赦しが自然に始まる
湧き出る意欲によって学び取り組むことで人生が生きやすくなったり自分らしさを発揮して世界を体験する(個別の魂の目的達成の為)
・
・
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でもやがて
世界への執着を手放したくなる強烈な苦悩、苦痛がやってくる?
時間の中で本物の心の平安は無いのだと体験から理解する時が必ずくる
↓
目覚めの為の意欲が起こる
全てを使い赦しに取り組む
↓
贖罪の完成
間違ってます?
誰か教えてください😆