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あらためて『愛』って何だろう? 

この世界の愛とは
優しさを与えてあげることかな?

例えば
(愛を持って)言葉や態度で伝えること
(愛を持って)お世話してあげること
(愛を持って)助けてあげること
(愛を持って)教えてあげること
(愛を持って)育ててあげること
(愛を持って)見守ってあげること
(愛を持って)気にかけてあげること
etc‥

そしてこれらを受け取ること
〇〇してもらうこと
「〇〇してくれたら私は安心で満たされる」

やはり誰か(肉体)の行為からしか感じられないもの
そして前提が優しさである必要があること

行為そのものは前提が苦痛から逃れる為からでも行える
「わたしの不安を解消する為に〇〇してあげる」
「〇〇してあげて△△に変わってくれたら(期待)わたしの不安が解消される」
という恐れが源であっても愛のように見える行為はできてしまう

私も期待を持って愛のようなものを差し出すことは日常やっている
期待なくできているのかよく分からない時もある
期待せずに何かをすることを自分に言い聞かせているのが分かるなら
その時は「期待してはいけない」が発動している

「期待は良くない!」by自我

期待して行う善の行為に
これを自我のすることとして愛から除外しているのは私です

自我の
差し出す愛のような何かの奥には必ず真の愛が隠れている

自我の
何かを与えれることで満たされたいという願望の奥にも必ず真の愛が隠れている
自我の卑小さ脆弱さの奥には必ず真の愛が隠されている

「罪・罪悪感・恐れ」
私達はこの言葉をとても恐れている
自我を恐れている
世界を信じ込んでしまっている自分を恐れている

罪・罪悪感・恐れ=愛の隠されている場所

この世界以外の場所に愛を探しに行く必要はなく
平安(愛)は今の私が見つけることができるもの

世界は幻想である。そこにくることを選ぶ者たちは、彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めている。しかし、ここにも自分の実相があると発見したときには、彼らは一歩退き、その実相に導いてもらおうとする。(ワークブックレッスン155.2)

奇跡講座下巻/中央アート出版社


この世界には愛は無いという考えが
この世界を愛から除外してしまっている

それをしているのは紛れもなく私です






我に(自我に)かえると

いつもこんなことを考えている私っていったいなんなんだろうと笑ってしまいます
これも私の個性らしいのでしかたありません
結構気に入ってます
本当は全く社会性とは縁遠い個性なのですが世界で生きて行く為に頑張って身につけてきたことも凄いことです
頑張ってきたなぁと抱きしめてあげたいです

この世界で頑張っている
一つの自我を慈愛の視点から
ただ愛おしく思うこと
愛すべき美しい存在だと感じること

それが私の探している『愛』なのかもしれません


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