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真の赦しの視点

この世界を真の赦しに使う目的を持って見るなら
どこから世界(自我)を見るかがとても重要だと気がつきました

心からだよね?
もちろんその通りです

この世界は自分の間違った心を写し鏡のように見せてくれています
投影のメカニズムが発動されている状態です

被害者意識が強い人
自分勝手な人
暴言吐く人
嘘をつく人
盗みをする人
人を騙してお金を奪う人
人をあやめる人
普通の人(でも何かが間違っているように見える人)

まぁとにかく自分の価値観に無いことしている人達をわんさか目にします

もの凄い怒りや悲しみ〜些細な引っかかり程度とレベルはありますが
ほんの少しの引っかかりがあるのなら自分の間違った考えを現実化させて見ているだけです
全て赦しの対象です

私は真の赦しとそうでない赦しがあると思っています
この移ろいゆく世界の中には
様々な赦しのバリエーションがあって当然です

真の赦しでないからいけないわけではありません

その違いについて書いてみたくなったのでこれは記録的な感覚で綴っています

真の赦しでない赦しは
様々なパターンがありますが
その中でも自我の癒しに有効だと思う赦しはあります
真の赦しではないといっても
コースの内容を信じている段階にきている人しかできない難しいものだと思っています

投影に気づいたなら
頑張って自分の中の闇を見つめるプロセスをおこないます

自分の解釈(価値判断)は普遍的なものではなく
世間から学んできたものであり自ら教え込んできたものというコースの教えを適応します
要は自我の基準のものだという理解です

他者を使い個人的な自分の闇に向きあった時
自分もそれをやっている
または隠しているとの理解が得られるかもしれません
その気づきは大きな癒しになるはずです

しかしこの赦しでは
自我としてこの世界に存在しているところからは出ることはできないです

自分がこの世界にいる人間だという個人的な視点から赦しを行なっても
他者を同じ源の兄弟と見れることはありません
世界の私の周りにはたくさんの自我たちがいるので
その赦しでは終わりが見えません
また別の自我を見て葛藤が次から次にやって来るはずです
でも癒しを感じれるなら
奇跡という知覚の訂正ではなく
個人的な価値観のブロック解除がなされているのかなと思っています

真の赦しをする者は前提として
この世界の中に神(愛)からのメッセージが聞こえるし目にしています
何が神からの贈り物なのか表面の奥にあるものが分かります

そして何故だか自分にはその役割があることを理解しています
受けいれるには段階的な理解が必要であるかもしれません

赦しとは個人的な癒しではなく
真の自己を思い出していく手段に使われるものという深いところから理解があります
頭で分かっているのではありません
そして間違った考えを訂正する責任感も感じるはずです
赦しは
きつい、しんどい、やりたくない(時として今の私は)
でも何処かで真剣になり責任を果たす時が来ることはわかっています


自分は神であり
永遠な存在であり
脅かされることのない存在であるとの認識もあります
赦しを行なっていくうちにその実感は強くなっていきます

そして自我をどこから見ているのかというと
全ての自我が見えている視点からです

抽象的ですね‥
どう説明したらわかりやすいのか‥

自我がしている様々な世界の使い方を見ても
全く問題ないという視点です

全ての自我は
自分だけの為にこの世界を使います
自分の利益の追求の為だけに世界を使います
それが自我の目的なので何の問題もありません
それを自我が自我を裁くことをするから苦しみが発生します

「自分は自分の利益の獲得のために世界にやってきたのだ」と
そんな自分を100パーセント受け入れることができたなら
周りに見える自我たちも自分と同じなので「皆んな同じだねー笑」という見方で見れます

「私はこの自我とその自我とは違う!」と自我である自分を棚上げして他と比較し
自分はまともなんて思っていることがちゃんちゃらおかしいことなのです

自我は嘘つきでズルいしまともじゃありません
確かワプニック博士も同じような事を言っていたと聞いたことがあります
ワプニック博士も同じ視点から見ていたのだと分かります
そして真の自分の平安を確信していたからこそ
自我(肉体)の自分をどう世界で役立ててるか分かっていた人なのでしょう
教えることで自分(自我)の満たされない部分を補うことなど考えもしなかったはずです
満たされている真の自分を確信しているから与えることが出来る人ということです

もしこれを読んで
満たされている自分は他者を癒すことが出来ると思った人がいたらちゃんちゃらおかしい人です

そして私から見て博士の凄いところは終始自我に寄り添う姿勢です
これはイエスキリストよりもできていたんじゃないかと思っています笑
イエスは人の子(自我)にはなかなか厳しい人というイメージです

福音書にあるイエスの言葉
「信仰の薄いものよ、なぜ疑った」
この言葉でも分かりますね
私はイエスのこういった厳しさが意外と好きで背筋がピシッとなります笑

しかしワプニック博士がどうであったかは私の個人的な見方です

この世界にいてワガママで自分勝手でない人などいません
自分のやりたくてしていることは獲得思考でやっているのだと宣言できるなら
かなり健全な自我です
赦しを志す前にこの自我を育てなければなりません

赦しとは
自分は本当は平安であり普遍であり愛の存在なのだという確信があって
この世界のおかしな知覚と神の愛のメッセージと自分の中に確かにいる慈愛の存在(聖霊)というこの全てが揃って奇跡(赦し)が起きるのです

今が嫌で
平安でありたいという獲得思考から赦しをするとは全く逆のことです

平安だから(知っているから)する

平安になりたいからする
では
全く意味が違いますね

平安が確信できていないのであれば
「自我ですけどなにか?」ぐらいの
この世界で自我として生きていく決心と覚悟が必要だと思っています

だいたい良い人振りたいのが自我のすることです
もちろん私も自我なので含めてます笑

自分の闇をしっかり自覚しむしろ闇が自分なのだという開き直りです

この言葉の意味は
じゃあ何をしても
無茶苦茶してもいいのか
という低次元な考えではないことはわざわざ書かなくても分かることだと思います

自我として何をやりたいか?
自我を生ききることが世界に来たからにはまずやるべきことです
自我の未練を断ち切れずに頭で聖霊の教えが正しいと聞いたから赦しを形だけしても全く無意味です
赦しなど二の次です

自分の自我はマシ
自分の自我はまともに変わった
なんて
周りにいる自我とは少しでも違うと思うなら
他の自我を咎めることはやめられません
その場しのぎの赦しをするしかありません

相手の自我の自由さを許す
だって自分(自我)だって自分の為だけにやりたいことやりに世界に来たわけだから
理由は同じです

自分(自我)の自由さを赦せた時
世界の見方が確実に変わります

この獲得思考の自我が世界をどう使うか全部理解した所から見れる視点があり
ここから見ることが出来る視点が赦しが起きる慈愛の視点です
この世界とは全く関係のない視点です

どこまでいっても抽象的な表現しかできません笑


個人的な見解として読んでいただけると幸いです


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