神の愛とは自立の促し 必要なものは与え尊重し見守るだけ
私達の真の目的は
この世界に物質的な存在である人間として在るのではなく
霊としての本当の自分を思い出すこと
それがカリキュラムのゴールです
私達は一つ一つの魂であり
もっと深く自分を思い出すなら
一つの神という想念です
自分が誰だったかを思い出すこと
それを達成するまでは
何を求めているのか分からないけれど求めずにはいられず
的外れなものばかり求めてしまいます
ゴールの達成に必要なものは全て与えてもらっています
それは
真理の概念である『奇跡講座』という知識
『赦し』という手段
『苦痛』というサイン
あとは自分で考えて
これらを使って目的を果たせばいいんだよと
神はただその様子をじっと見守ってくれています
この神の態度は
この世界にもその反映をみてとることができます
親が子供の自立を促したくて
必要なサポートを取る時です
例えば子供が夜更かしばかりして
朝起きれずいつも親が起こしてあげていれば子供は親に依存することが当たり前になってしまいます
起こしてくれなかった時
自分を反省するではなく親を責めることを当たり前にしてしまいます
自立を学ぶことが出来なかった子供はやがて大人になり
社会の中で何かが上手くいかなかった時
人のせいにする態度や考えを当たり前のように取るようになってしまいます
子供時代に大人は自立に向け問題の取り組み方を教えてあげなければなりません
大人は必要なサポートのみします
それは神の態度と同じです
朝自分で起きれず毎日のように親が起こして学校に送り出しているのであれば
愛情あるサポートは起こしてあげることではありません
目覚まし時計を与え
その使い方を教えてあげます
あとはそっと見守り不必要な手出しはしません
たとえ寝坊して学校に遅刻してしまってもその責任は子供自身に取らせてあげること
その体験を奪うなら子供は自分の人生を自分の責任で生きることが難しくなってしまいます
子供の問題を親自身の問題として見てしまう時
子供の失敗はまるで自分の失敗のように感じます
愛情の押し付けや、自分の隠された怒りを投影しぶつけてしまいます
子育ては自分育ての絶好の機会でもあります
神は失敗をいけないものだと見てはいません
その経験の中で魂は成長し成熟し
神が与えてくれたものを活用できる時が来ることを知っているからです
私達は当たり前にこれまでの教えられてきた知識や体験で
全てを判断してしまうので「失敗は避けるべき」が無意識で働きます
失敗してこその人生経験です
自分に失敗を許していないなら
他人の失敗も許すことはできません
不安に襲われるか、怒りが湧くでしょう
子供に対して
見守るも見放すの違いもよく分からないものになってしまうと思います
まずは自分を大切に扱ってあげることが第一優先です
自分を大切にして愛することが出来たなら
神からのサポートを感じることができます
神から見放されているのではなく
愛の中で見守れているのだと理解し
与えてもらえてるものが活用できるようになるのだと思います