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『赦し』の道を生きるとは? 恐れ、裁き、罪悪感を湧き上がらせる考えを自ら手放すことは自己欺瞞(12/26加筆/タイトル変更)
そもそも悪に対し善で報いること自体が不可能なことである。(二十七章Ⅱ2.)
奇跡講座などの真理の言葉を学び
「真理を生きたい」と霊性の道に入ることを決めた人達は怒りや裁きなどの攻撃心を抱いたら
「またやっている」などと自分を咎める思いが出てきて自分の行動や考えを咎めることをしてしまいます
コースの学習者であれば
「別の選択肢」があることを知っているからそれを選びたいという思いが湧き上がり
自我でなく聖霊を選ぶためにこの怒りや攻撃心を手放そうとしてしまうのではないでしょうか?
恐ろしい考えを持っている罪悪感に飲み込まれる怖さがそうさせてしまうのだと思います
その考えはすでに恐れ、苦痛、罪悪感を引き起こしました
知覚された考えはこの世界レベルで自分の意志の力で変更できるように感じます
そんな考えを持ったことを撤回すること、脇に起くこと、聖霊に助けを求めることが赦しの実践のように感じてしまいますがそうではありません
自我ではなく聖霊を選びたいという態度はもちろん素晴らしいことです
戦いを放棄したいという考えや行動は人格が成長している人でなければできないことです
霊的成長の道はまずは人格成長がなければ入ることができません
しかし
イエスは自分の考えていることに正直にならないことを
自己欺瞞だと教えてくれています
正直さという言葉は実際には一貫性を意味する。自ら語ることが何一つ自分の考えや行動と矛盾せず、どの考えもどの考えと対立せず、すべての行為が自分の言葉を裏切ることなく、どの言葉も他の言葉と符合している。このような者たちが、真に正直な者たちかである。(教師のためのマニュアル4.A.Ⅱ.1:4〜7)
欺こうという願望のみが争いを促す。自分自身とひとつである者は葛藤など思い描くことさえできない。葛藤は自己欺瞞の必然的な結果であり、自己欺瞞とは不正直さである。(教師のためのマニュアル4.A.Ⅱ.2:2〜4)
私達が自ら攻撃をやめたとしても知覚の変化という奇跡は起きません
これは思考レベルの攻撃のことです
形態レベルの攻撃は私もしないに限るとは思っています
奇跡は聖霊によってなされるので
そこに信頼が必ず必要になります
そして私達のすることは
怒りを感じたならそれをありのままに受け入れる
誰かを咎めたいと感じたらそれをありのままに受け入れる
攻撃心や復讐心を持ったならそれをありのままに受け入れる
全く形を変えようとはしません
それは自我の攻撃心を早急に手放そうとしないということです
今の自分の考えをありのままに受け入れる
これがイエスの求める正直さです
そんな恐ろしい考えを握りしめている自分を「許す」ということです
自分の考えについて良い、悪いとジャッジをしません
これまで生きてきた中で親や先生や社会から教え込まれてきた考え方ではありえないので怖さが伴うはずです
そんな自分でいいわけないと反発心が出てくるでしょう
これをする意味は
自分で赦そうとしないということです
良いとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい
過去が教えた想念も、以前あなたが何かから学んだ信念も、いっさい持ち込まないようにする
(レッスン189.7)
自分の中から湧き出た恐ろしい考え、感情に蓋をして正しさを押し付けようとする行為(ジャッジメント)は自分の中で葛藤を引き起こします
その考えを手放したいと願望することは防衛手段であり自我の戦略となっていることに気が付かなくてはなりません
防衛は恐れから生じ、それがなされるたびに恐れを増大させる。
自分が望むように現在を整えようとする時にあなたのしていることは、まさにこのことである。(レッスン135より)
防衛が心の不調和を引き起こし
その争いはいつでも外側に投影されることになります
自分の考えを排除せず「そう考えてしまうんだね、いいよ問題ないよ」と受け入れてあげます
赦しは幻想直視という手段で自身の闇(勘違いしている考え)をジャッジせず過去の自我思考から探し出す作業ですが、
これをする前段階としてどのような湧き上がってくる想念も「問題なし」とする自分への優しさを養う必要があります
自我思考では怖くてできないか強い抵抗を感じるものです
自我は心の平安は考え方を自ら変えようとすることで作れると思っています
できたとしても一時の安心程度ぐらいでしょう
赦しを行う者は自分自身への信頼が必ず必要です
それは神を信頼すること聖霊を信頼することと同じ意味を持ちます
聖霊は神でもありあなたでもあり、あなたも同時に神であり聖霊である。(16章.Ⅲ.5)
自分(神/聖霊)への信頼が希薄だなぁと感じるなら
それをまずありのまま認めて自分を信頼できないことを受け入れて許してあげてください
自分の中の闇(自我の考え)をそのまま受け入れるということです
大きな葛藤が起きるでしょう
正しさ(真理)から離れ赦しが遠ざかるように感じるかもしれません
今まで自分に対してどのように接してきたでしょうか?
自分の正直な気持ちを否定し咎め
自分の知っている正しさを押し付けていたのならそれは自分を冷遇していたということです
他者を咎める自分を咎めていませんか?
罪悪感を感じる自分を咎めていませんか?
咎めているからこそ自分の考えを手放(排除)したくなります
聖霊の考え方に変えたくなります
しかしその願いは聖霊には届きません
ありのままの思いを認めて受け入れてあげることは自分自身への優しさとなります
その優しさが自己信頼を築き赦しへの道を作ってくれます
私自身もまだまだ自分に対する厳しさが手放せません
でもそれに気づいたならそんな自分をありのままに受け入れ「〇〇と考えてもいい」と自分を許してあげています
世間一般的には声に出してしまえないどんな考えを持っても自分を許してあげます
聖霊の教えに従わなければいけないという価値判断の方を疑い手放していきます
これは、今までしてきた自分自身に対する真逆の態度だと言えます
闇(考え)を形を変えず受け入れることが真の優しさということです
自分が信じている「善」とする考え方のものさしは使いません
自我は自分が神を攻撃できると確かに信じており、あなたがこれを行ったのだと、あなたを説得しようとしている。(七章Ⅵ8.)
この引用文はあなたが罪悪感を湧き上がらせる考えを恐れ
間違っていると判断して手放すようにと導いているのは自我の声だと伝えています
私達はほとんど気づくことなく自我の正しさの奴隷です
奇跡講座の教えを生きるということは
聖霊の考え方に自らシフトチェンジするということではありません
ここは多くの学習者達が勘違いしているところです
今まで信じてきた、培ってきた考えの真逆からのアプローチが必要となります
これに恐れを伴わずできる人はまずいないのではないでしょうか
あなたの救済は、自我が信じているすべてのことの正反対を教えることにある。(六章Ⅲ.4)