#36【劇評・絶賛】中村鶴松「野崎村」お光(猿若祭二月大歌舞伎)(中編)
ぎゃああ!日付をまたいでしまった!!!1日1投稿の掟を、2月21日は破ってしまいました。ちょっと出かけていて…千葉の海には魔物が棲んでいる。
さて、御託はこれぐらいにして、前回の続きを書きます。
くらた的お光論:ジョーカーをスペ3で制したお光のカッコよさ
鶴松さんのお光を語る前に、まず、そもそものお光というキャラクターについて深掘りしたいと思います。
出家とは生きながら死ぬこと
くらたが高校生の時から愛読している新選組青春漫画『風光る』(渡辺多恵子/小学館)では、「出家とは生きながら死ぬ事なり」と語られています(21巻)。思いつめた主人公が、自害は思いとどまったものの、現世からの離脱を望んだ際に選ぼうとするのが、世俗を捨て仏門に生きる出家の道です。金品の所有や男女関係は一切許されません。
まさに、生きながら死ぬこと。
「出家とは生きながら死ぬ事」とは、瀬戸内寂聴さんも同じようにおっしゃっているようですね。
「心中」というジョーカーを制するスペードの3=「出家」
少し話がずれますが、トランプゲームの「大富豪」(「大貧民」ともいう)をご存じでしょうか。このゲームのルールでは、スートに拘らず2が最も強く3が最も弱いですが、ジョーカーが使用されたときにはスペードの3がジョーカーを凌駕するルールがあります。一般社団法人日本大富豪連盟で公式ルールとして採用されているようです。連盟まであるんですね、すごい。
閑話休題。
物語世界において「心中」はいわばジョーカーのようなもの。心中が実現してしまえば他の登場人物はなすすべがありません。かなわぬ恋を儚んだお染と久松の心中を思い止まらせるためには、その恋の障壁である久松の婚約者=お光の存在が消えてなくなるよりほかはない。しかし生きていてほしくて心中を止めるのにまさか自分が死ぬわけにもいかない。切られたジョーカーを制するべくお光が切ったスペードの3が、生きながら死ぬ「出家」だったのです。こんなに身を切ったスペ3あるかよ……!
「ふられぎわかっこいい女性」というロマン
その覚悟の凄み、かっこいいですよね。
まったく私見ですが、こういう、ふられぎわかっこいい女性の造形は、女性が描く時代劇に多く見られる気がします。いわば女性のロマンなのかもしれません。
上述した『風光る』26巻(渡辺多恵子/小学館)では、新選組局長・近藤勇を妹の孝(こう)に寝取られた深雪(みゆき)の去り際を、これ以上なくかっこよく描いています。どんなエピソードかは長くなるため引用できませんが、深雪に莫大な手切れ金を支払わされた後の各人のやりとりがこちら ↓
思わず「かっこいい……」と感じ入るくらい見事なので、ご興味ある方はぜひお読みになってください。深雪太夫の主なエピソードは25巻から始まります。時代考証がしっかりされているので幕末史や生活風俗の勉強にもなります。作者のキャラクターが強いですが、わたしはとても好きです。
また、江戸時代の遊郭吉原を舞台に、苦界に身を沈めた武家出身の主人公・茜が親の仇・中村を討つ『青楼オペラ』(桜小路かのこ/小学館)9巻では、同じ置屋のライバル遊女・紫(ゆかり)が読者を虜にする去り際を魅せます。茜の忠臣・利一は、ゆかりが自分に好意があるのを知ったうえで、「仇敵・中村の不正を暴くために秘密を握る真堂の妾になってほしい。見返りに自分はゆかりの望みに何でも応じる」とゆかりに頭を下げます。ゆかりは「よござんす」と即答のうえ、見返りを断ってこう続けます。
「下手に我が儘など叶えさせて その後ろめたさを消してなどやるものか」……しびれる啖呵です。作中ずっと嫌な奴なんですけど、この潔い去り際は本当にカッコイイ。フィクションの少女漫画ですが、恋愛あり、サスペンスありでおすすめです。全12巻で読みやすく、TSUTAYAにもあります。
時代劇という装置 現代劇では描けないものを描く
ここまで誉めそやしておいてナンですが、これを直接的にロマンとか美学などとすることが危険なのはくらたも承知です。
お光だって深雪だってゆかりだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ。それぞれ人生の主人公なんだから、こんなにまでして誰かのために犠牲にならなくていい。
時代劇という装置が愛されるのは、現代ではリアリティを持たせられないキャラクターや物語によって喚起される感慨を伝えるためも大きいと思いますが、もうひとつ「今の話じゃない」という間接性を設けるためなのではないかと思います。
現代劇の登場人物からはもっと直接的に影響を受ける。描かれた登場人物のふるまいを「現代社会から期待されるふるまい」だと思ってしまう危険性がある。時代劇なら「昔はそうだったんだ」となる。危険性は減ります。
話がずれ過ぎました。そのために日付をまたいでしまったよ…トホホ。
まあ、またいだからには心ゆくまで書きます。
ADHDの人の文章はとっ散らかるらしいよ。わたしか?
お光というお役は鶴松さんのためにあったのだ
日々アップデートを続けている歌舞伎界
さて、前回、「外から歌舞伎界へ入った」「部屋子」の鶴松さんが「お光として」「歌舞伎座のチラシの一番前に名前が載ること」がいかに奇跡的なことかを書きました。
久松を七之助さんにして初役を揃えたこと(初役なのが鶴松さん一人であるよりも、七之助さんと二人のほうが、みんなのプレッシャーが少なそうだと思うのは素人考えかしら?)や、お染を児太郎さん、父・久作を弥十郎さんなど盤石の布陣で固めたことからも、中村屋も松竹も歌舞伎界全体で「その多様性をこそ現代の歌舞伎界だというメッセージ」を打ち出していることがうかがえます。そのうえで観客(私)は鶴松さんのお光を見て、「お光がそこに存在している」と感じた。それは鶴松さんが実力を以てその重責を果たしたということです。名実ともに歌舞伎界は日々アップデートを続けている。
「お光の存在」を感じさせる鶴松さんの身体性
無邪気ではすっぱな子どもっぽい村娘が、たった一時間やそこらの間に、自分の役割を見極め(=成熟し)、出家する。そのお光の役に鶴松さんの身体性はとてもぴったりだったと思います。
「一声二振三姿(いちこえにふりさんすがた)」の言葉のとおり、とりわけ良かったのは声で、前半のお光では高くてかわいらしい声にされていました。鶴松さんの声は女形の中では比較的低い印象があったので、これにはけっこう驚きました。でもぴったりだった。また、無邪気に喜んだり嫉妬したりするようすは、細かいしぐさや目線などよく練られていて愛らしかったです。実際に大根を刻む包丁さばきもすごかった。さらに、鶴松さんは背も大きすぎないし、整った顔立ちで目元は涼しげながらもきつい印象はなく、素朴で明るい娘姿がよく似合っていました。
いっぽうで、出家し、大阪に戻っていくお染久松を、悲しみをこらえて気丈に見送る佇まいも、大変説得力がありました。前半から変えた、鶴松さん本来の低めでハスキーめな声が合っていたからだと思います。無邪気でチャキチャキした前半からは打って変わって、不動・静寂の中の寂寥の表情が光りました。また、華奢すぎることもなくいかつすぎることもない体格のためか出家姿でありながら悲壮すぎず、強い存在感がありました。
緊迫のラストシーン
ラストシーン、大阪で夫婦になるであろう久松とお染を見送った後、久作と尼姿のお光が二人、舞台に残されます。二人とも茫然として微動だにせず、音曲も奏されず、舞台に長い静寂が訪れます。
無音の緊張感。鐘の音。
ふいに左手に持っていた数珠を落とすお光。ジャラっと音が立ち、また無音。動かないお光を見て、久作が数珠を拾ってお光の左手に万感の思いを込めて握らせてやります。
また無音。
ふと、堰を切ったように大声で泣き崩れるお光。久作の膝にすがって泣きじゃくります。お光の手を取り「もっともじゃ!もっともじゃ!」を繰り返すことしかできない久作。二人のこの声を聴きながら、幕切れとなります。
歌舞伎の家の子じゃないからこそ伝えられる何か
七之助さんも、麗しい女形からカッコイイ立役まで演じる花形役者です。くらたは七之助さんファンなので、自然ともし七之助さんがお光を演じたらと想像してしまいます(過去に演じていらっしゃいますがくらたは未見)。
私見ですが、七之助さんは美麗で線が細くシャープな印象なので、田舎娘の素朴さというよりは何か抑圧された知性や色気が出そうだし、出家したあとにもそうした凄みが出そうな感じがします。その凄みは、幼少期から演じて来られた多くのお役の積み重ね(と、くらたが観たいろんなお役の七之助さんの印象)が醸し出すのだと思います。
総じて、舞台とわれとの境界はハッキリとし、距離感は遠くなりそうです。「歌舞伎物語を見ている」という認識になりそう。
翻って、鶴松さんのお光は、無邪気で素朴で現代的なのだと思いました。現代的とは、現代のわたしたちが、親近感の湧く、話が通じそうな、取りつく島がある感じです。なんかお光が友達みたいな感覚になるというか。それだけお光に現実的な存在感があるということだと思います。
もちろん、演技や身体性だけでなく、鶴松さんの背負ったバックグラウンド込みで総体として感じることでしょうけれど、誰しもそうしたものから完全に自由であることはできません。
歌舞伎はそうやって楽しむものだと思う。
お光というお役は鶴松さんのためにあったのだと、くらたは思いました。
古典の世界に現代人がコミットできるように媒介するのが歌舞伎俳優
それらが総合して、「最後泣きじゃくるお光をハグして『よくがんばった!えらかったね!』って言ってあげたい、一緒に泣きたい」というほどのお光への共感、見に来てよかったという満足感を起こさせた。
これが、「この物語を「胸糞」とか言っている現代人に、「よかった!」と泣かせて帰す歌舞伎の魔力」だったとくらたは考えます。歌舞伎俳優が媒介することによって、古典の世界に現代人がコミットすることを可能にする。
なんといいますか、舞台の上のことも外のことも、成長も失敗も、ぜんぶをひっくるめて魅せるのが歌舞伎役者なんだなあと感じています。
かつて、市川猿之助さんと團子さんの連獅子を観に行ったことがあります。
連獅子はよく親子で演じる演目です。十代のころの七之助さんが勘三郎さんと連獅子を演じて、本番の舞台上でついていけずに置き去りにされているところをテレビで放映されていました。そういう演目です。中車さんは歌舞伎界で育っていらっしゃらないので猿之助さんから團子さんに伝える。
開幕数日くらいに観に行ったとき、團子さんはまだまだ慣れない印象でした。その後気になって千穐楽近くに観に行ったら、まったく別物というくらい上手になっていらっしゃって、短期間での成長が本当に素晴らしかった。
未熟な時点から成長のすべてを見せていく。中車さんが歌舞伎界で育っていない理由もいろいろとあるわけですが、その文脈も含めて客は見物する。
その総体としての歌舞伎見物という体験があると思っています。
歌舞伎役者とは、つくづく、とてつもない職業です。
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