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【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その3

出版情報

  • タイトル:聖徳太子: 地球志向的視点から

  • 著者:中村 元

  • 出版社 ‏ : ‎ ‎ 東京書籍 (1990/9/1)

  • 単行本 ‏ : ‎ 251ページ

前回まで

 【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その1では、東洋思想研究の世界的権威である著者中村元なかむらはじめの紹介と、私のこれまでの断片的な聖徳太子像、それから飛鳥・奈良時代のコスモポリタン的な空気感を本書を通してご紹介した。
 聖徳太子は一義的には、当時の政治家=為政者であった。中村は、冠位十二階や十七条憲法、仏法興隆で内政を整え、当時の大国 隋に対して対等外交を行なった聖徳太子を実質的な日本の建国者ととらえた。その上で中村は聖徳太子の思想家や宗教家としての側面を伝え、聖徳太子は世界規模で思想史上の偉人であることを述べようと試みている。聖徳太子は日本の為政者であると同時に、ある種の普遍性を備えた価値を創出したのだ、と。
 【読書】 聖徳太子: 地球志向的視点から その2では聖徳太子が特に重要であると選んだ三つのお経維摩経ゆいまきょう』『勝鬘経しょうまんきょう』『法華経ほけきょうと、そのお経について解説した三経義疏さんきょうぎしょについて述べた。驚いたことに三経義疏さんきょうぎしょは日本最古の古典なのだ。帝王といってもよい政治家である聖徳太子が説いた三経義疏さんきょうぎしょは後代においても非常に尊重された。それこそが聖徳太子が世界規模で思想史上の偉人の証の一つであろう。そのことを日本人はもっと知ってよいのではないだろうか?

 今回はいよいよ著者 中村の専門である比較思想史によって、聖徳太子の世界思想史的な意義とは、どのようなものであるのかを見ていこう。聖徳太子の偉大な事績を、「ほかの国の似たような現象なり、思想なりと比べてみて、はじめて日本の独自性、さらに限定していうならば、聖徳太子の独自性というものが出てくるのではないか、それが太子の精神を解明する一つの手がかりになるのではないかと考えるのである」p102-p103。この中村の意図が本書でどれほど明らかになったのか、確かめていこう。

 本書の内容を、すぐ知りたい方は、もくじの聖徳太子の世界思想史的な意義をクリックしてください。その前の比較思想史とはには私の行きつもどりつが書いてあるだけなので、飛ばしていただいて大丈夫です。

 また前回の最後の方で、三つの古代仏教国を比較する、と書いたのだが、中村の行ったこととはちょっとずれていた。そこで本記事では、より中村が行ったことに沿って、中村の意図したことが十全になされているかどうか、確かめていくことに方向転換した。お詫びして訂正しておきたい。なお、三つの古代仏教国とは紀元前3世紀のアショーカ王のマウリア朝7世紀のソンツェンガンポ王のチベット、そして6世紀の聖徳太子の我が国日本である。中村はこの三つを確かに比較はしているのだが、それだけではないので、このように方向転換した次第である。


比較思想史とは

 恥ずかしながら…比較思想史の定義を見つけることができなかった(本書においてもネットにおいても)。いや少しは見つかりはしたのだが、ふわっとしている。そこで、本書を読んで、思想史とは、比較思想史とは、を自分なりにまとめてみたので、まず、それを書いておこうと思う。そうでないと、本記事を書き進められなかった。

思想史とは

 正確にいえば、これはwikiコトバンクなどにはちゃんと定義っぽいものが書いてある。定義というより、説明、かな?しかしながら今一つピンとこなかったので、自分なりの定義、というか理解を書いておく(素人がおこがましいことではあるけれども、「自分で考える」ってこういうことだと思う、結局)。
 その前に哲学の定義が必要になるので、書いておこう。

【哲学とは】コトバンク:精選版 日本国語大辞典 より
世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問。とらわれない目で事物を広く深く見るとともに、それを自己自身の問題として究極まで求めようとするもの。

【思想史とは】私の理解
 考え方や行動や選択の土台となる哲学が、どのように変化していったのかを哲学者、思想家、政治家、民衆などの事績やテキストなどをもとに研究する分野

のようである。

【比較思想史】私の理解
 国や地域などを単位として、思想などが時系列的にどのように変化してきたのか、人物の事績や各種テキストから比較する学問

のようである。

 そもそも、中村元は比較思想学会を立ち上げて初代会長なのだ。彼にとってはそんな定義など最初はなから必要ないほど自明なことなのだろう。あるいは、定義をすればもっと大切な「自由闊達な学問や研究」から逸脱してしまう。下記のような昭和49年の設立趣意書から読み解くほかないようだ。

比較思想という研究領域は…既成の学問分野に固定することなく、ひろく自由に研究課題を設定し…とりわけ東西両思想の比較考察をおこない、他を顧みることにおいて自己自身の真の把握に志す
われわれはここに、比較思想学会を設立し、同学の士の参加をもとめ…真理の追求にむかっていくことを提唱したい。

比較思想学会 趣意書 より抜粋

中村は思想を比較することで真理の追求に向かいたいと願っていたのだ。なんだか門前の小僧が「和尚様、『比較思想史』ってなんですか?」と尋ねたら「喝っっ」ってやられたような感じ…。あるいは「足下を見よ」かな?あるいは中村の論文の中に、つまり中村の行動の結果そのものに、『比較思想史』の定義が練り込まれている…。上の私なりの定義は本書で中村が行なっていることを要約したものなのだ…(ま、私は幼稚なのでどれもが的外れかも、なんだろうけど…)(ま、そういうことだ)(いろいろお付き合いいただいて申し訳ありません💦)。

聖徳太子の世界思想史的な意義

 中村のいう、聖徳太子の世界史思想的な意義とはなんだろう?

 それを明らかにするために、中村はまず、聖徳太子の比較対象、あるいは比較の土台となるものを定義している。それが『普遍的帝王』である。
 そして著者 中村によれば聖徳太子はこの『普遍的帝王』の要件を満たすという。つまり聖徳太子もまた『普遍的帝王』の一人なのだ。『普遍的帝王』は世界史上、そんなにたくさんいるわけではない。聖徳太子が『普遍的帝王』の一人である、というただそれだけでも、十分聖徳太子には世界思想史的な意義が存在する。その上で中村は聖徳太子の事績を、他国の『普遍的帝王』比較して、日本の独自性、さらに聖徳太子の独自性を明らかにし、太子の精神を解明する一つの手がかりにしたいという意図を持って本書を執筆しているp102-p103。はてさて、その意図どおりになっているだろうか?見ていくことにしよう。

普遍的国家とは

 中村は普遍国家という概念を中心にすえて議論を展開している。では、中村のいう普遍的国家とはどういう国家なのであろうか?

古代において一つの文化圏におけるもろもろの部族の政治的軍事的対立の状態が打ち破られて、その文化圏の政治的統一が確立された場合に、その文化圏における普遍的国家というものが成立した。

聖徳太子: 地球志向的視点から p103

そして文化圏においては、次の事柄が起こったと中村はいう。

1 その文化圏全体を支配統治する、強大な国王(または統治者)が出現
2 精神面において諸部族対立の時代にはない新しい指導理念が必要となる
3 その指導理念を、世界宗教が提供する
4 指導理念は、詔勅などの文章表現で、一般の人々に向かって公表される
5 その世界宗教が、この統一国家において急激に発展する

聖徳太子: 地球志向的視点から p104

このような要件を満たす国が普遍的国家である。

 中村によれば聖徳太子日本の実質的な建国者である。日本統一の指導理念として仏教を採用し、十七条憲法を発布した。聖徳太子以降、仏教は日本で急速に発展した。
 つまり聖徳太子古代において諸部族の対立から統一を成し遂げ、世界宗教を指導理念とした普遍的帝王の一人である。

 聖徳太子の偉大な事業も、日本においてある歴史的な転換が行われた、その時期における一つの大きな歴史的現象であった。ほかの国の似たような現象なり、思想なりと比べてみて、はじめて日本の独自性、さらに限定していうならば、聖徳太子の独自性というものが出てくるのではないか…

聖徳太子: 地球志向的視点から p102-p103

  各国の帝王の事績などと、聖徳太子とのそれを比べてみよう、というわけである。

聖徳太子の比較対象となる普遍的帝王たち

東洋の普遍的帝王たち

 中村はたくさんの東洋の普遍的帝王たちを挙げている。
 インドマウリア朝のアショーカ王(前3世紀)、日本聖徳太子(6〜7世紀)、チベットソンツェンガンポ(7世紀)、南アジアではミャンマー(ビルマ)のアナウラーター王(=アノーヤター王)(11世紀)、カンボジアではジャヤヴァルマン7世(13世紀)、タイラーマ・カムヘン(13世紀〜14世紀)など。大乗、上座部の違いはあれ、いずれも仏教を保護した。あるいは国家運営の理想を仏教においたp104-p105。
 シナではりょうの武帝(6世紀)あるいは隋の文帝(6世紀後半)。特に隋の文帝はシナ全体を統一し、シナ仏教全盛時代の端緒を開いた。朝鮮半島では統一を成したのは新羅である(それ以前は高句麗・新羅・百済が対立していた)。聖徳太子に対比しうるのは法興王(6世紀前半)、次の真興しんこう(6世紀後半)だという。この2人の時に、宮廷にも国内全域でも仏教が盛んになったp108-p109。

西洋の普遍的帝王たち

 東洋の普遍的帝王たちの精神的支柱は仏教であったが、西洋ではそれはキリスト教であろう。そしてキリスト教によって統一の基礎としたのはコンスタンチヌス帝(4世紀前半)であった。さらに中世では神聖ローマ帝国を確立したカール大帝、ずっと後代のフランスのルイ9世スペインのフェルナンド3世のキリスト教に対する態度も対比されるようだp110。
 さらにそれ以前にストア哲学を精神的支柱とした帝王もいた。ローマのマルクス・アウレリウスはよくアショーカ王と比べられるというp111。だが、と中村は続ける。「ストア的な考えをもっていた人…の場合…自分が(それを)取り入れたことによって帝国の経綸にどれだけ変化が起きたか」と問いかける。そして、実質的に聖徳太子の場合ほど劇的には経綸(=国家の秩序を整え治めること、その方策)は変化しなかった、と結論づけているp111。「日本文化の確立者としての聖徳太子は、こういう視点から見なおされ、あらためて評価されねばならない」p111。「聖徳太子のときに日本は独立国として飛躍的な発展をとげた…独立国としての自己を主張するようになった。…従来は「おおきみ」と称していたのに、推古朝のころから「天皇」という称号を用いるようになった」p112。

東洋と西洋の普遍的国家の違い

 正確には普遍的国家を支える精神的支柱である、仏教キリスト教(嫉妬についてはユダヤ教)によると思われる違いを、本書の中で見出すと、
 善悪について
 土着信仰の扱いについて
 嫉妬について
が挙げられる。「善悪について」「土着信仰の扱いについて」は該当箇所で述べたので、ここでは割愛する。嫉妬について。「モーセの十戒の中に、「われエホバの神は妬む神なれば、われをにくむ者にむかいては父の罪を子にむくいて…われを愛しわが誡命いましめを守る者には恩恵をほどこし…」…こういう宣言は東洋では見られない思想である」p137と中村は述べている。このような形で団結しないと、砂漠の中では死んでしまう。そういう厳しい環境なのかもしれない。
 全般的に東洋および日本は寛容で、西洋は非寛容な印象がある(もちろんそう言う印象だけで断じることはできないのだが)。そうしてそれが現在の戦闘行為などにつながっている印象も。「自分と同じ信仰やイデオロギーがない人々は敵」「同じ信仰やイデオロギーに変えさせることが善」としているといつまで経っても戦いは終わらない。聖徳太子の言うように「あなたも私もみな凡夫。許し合おう。存在を認め合おう」となる世の中がくるとよいのだが。

十七条憲法を軸に普遍的帝王と比較する

帝王の思想=指導理念の表明

 古代の帝王が採用した新しい指導理念を、統一された国家の人々に明らかにし、みなに知ってもらう必要があった。

 聖徳太子は、604年に、「十七条憲法」を発布された。それはいうまでもなく、日本における最初の法律である。聖徳太子の「十七条憲法」に対して、チベットソンツェンガンポ王には「十六条法」があり、インドアショーカ王には、石柱および岩石に刻された詔勅しょうちょくがあり…数々の教えが説かれている。それらに共通な特徴は、いずれも表現形式の上では道徳的訓戒に近い。…法律的なやかましい議論はしておらず、根本精神を明らかにしようとしている点で共通である。

聖徳太子: 地球志向的視点から p113-p114

一方それぞれの相違点は、

 ソンツェンガンポ王「十六条法」は、一般民衆に向かって一般的な道徳を説いているのに対して、聖徳太子「十七条憲法」は、おおやけの道…官吏としての道徳的な心がけであるといえる。アショーカ王詔勅は、大部分は一般人に向かって説かれたものであり、若干の詔勅が官吏に向かって告げられている。

聖徳太子: 地球志向的視点から p116

 聖徳太子の十七条憲法には、官吏に向かって道徳的な心構えを説いているところに大きな特徴がある。

指導理念の表明としての十七条憲法

 「当時の社会は、まったく内外とも危機的な様相のなかにあった。太子は、このときこそ、国政の方針を明らかにし、進むべき道を示そうという決意のもとにこの憲法を制定したのであろう」p117。
 また「十七条憲法」の文章は、簡潔で風格に富んだ名文であると多くの学者が評価しているp120。シナの諸書の辞句を素材としながら独創的な内容を表現しているp120。岡田英弘によれば、シナの四書五経など古典は一種の暗号表で、これを駆使して今必要な文章を作成していくことこそが科挙によって選抜されたシナの官僚に求められていたことだという(シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)))。つまり、この十七条憲法の評価こそ、まさに漢文を使いこなしている、ということだろう。そしてこのような漢文で書かれた十七条憲法は当時の隋や続く唐などでも理解され、一定の評価を受けたことだろう。つまりこれは内政文書であったと同時に外交的にも我が国の国家レベルを示す重要な文書であったのだと推測できる。
 では十七条憲法にはどういう特徴があるのだろうか?

  1. 君臣民の関係を説いている。

  2. 議論することを重要視している。

  3. 人格者たる理想の官僚像を説いている。

  4. を重んじる。

 以下、これを一つずつ見ていくのだが、本記事の構成は本書の構成とは少し違う。中村の意図した「聖徳太子の事績を、他国の『普遍的帝王』比較して、日本の独自性、さらに聖徳太子の独自性を明らかにする」「太子の精神を解明する一つの手がかりにする」p102-p103がより明確になるように、このように構成し直した。また上記の十七条憲法の特徴は、もちろん本書に書き記してあることばかりだが、強調のされ方や順序などは異なる。現代人の頭に残りやすいように工夫させていただいたつもりなので、ご了承いただければ、と思う。
 さて、それでは本題に入っていく。

十七条憲法は君臣民の関係を説いている

 「聖徳太子は「十七条憲法」を通じて、官僚制度を中央集権的に編成しなおすことで、朝廷の権威を増大するという政治的実践とともに、仏教による理想国家の建設を図り、具体化した…」p120-p121。
 統一国家において、豪族や門閥は官僚としての地位を与えられることで、政治的支配権を保持することができたp133。この特徴は、隋の文帝の場合でも、聖徳太子の場合でも同様であった。アショーカ王の場合は、祖父のチャンドラグプタが成し遂げてくれていたp133。
 だがチベットのソンツェンガンポ王官僚に発した詔勅しょうちょくなどはなくアショーカ王も少ししかない、というp116。だから十七条憲法の存在自体日本独自であり、聖徳太子独自なのだ。

 ちなみに日本では太子の時代より前に官僚制度があったことは確認されているそうだp118。つまり十七条憲法以前でも官僚心得は存在したに違いない。それをさらに仏教との融合を図り漢文で著した、というところに意義があったのではないだろうか?

 中村は、十七条憲法では君臣民の関係を説いている、という。そしてこれは他の普遍的帝王の詔勅には見られないものだとも述べているp138。具体的な条文を見ていこう。

第三条 天皇の詔を承ったときには、かならずそれを謹んで受けよ。君は天のようなものであり、臣民たちは地のようなものである。…もしも地が天を覆うようなことがあれば、破壊が起こるだけである。こういうわけだから、君が命ずれば臣民はそれを承って実行し、上の人が行うことに下の人びとが追随するのである。だから天皇の詔を承ったならば、かならず謹んで奉ぜよ。もしも謹んで報じないならば、おのずから事は失敗してしまうだろう。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p230

第十二条 もろもろの地方長官は多くの人民から勝手に税を取り立ててはならない国に二君はなく、民に二人の君主はいない全国土の無数に多い人民たちは天皇を君主とするのである。官職に任命されたもろもろの官吏はみな天皇の臣下なのである。公の徴税といっしょに自らの私利のために人民たちから税を取り立てるというようなことをしてよいということがあろうか。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p234

 中村は続けていう。「アショーカ王の場合にも自分の詔勅を徹底せしめようという意図は強烈であった…しかし帝王であるがゆえに有する権威を強調するという思想が認められない…普遍的な理法を説くがゆえに尊敬されるべきものなのだ…」「ソンツェンガンポ王の「十六条法」のなかにも、「君に対する忠」ということは一言も数えられていない」「ところが聖徳太子の場合に強調されているのは、中央集権的国家における君・臣・民の関係である」p138。
 さらに和辻の『日本倫理思想史』の「君・臣・民の関係は、シナから学んだものであると共に、数世紀以来日本において醸成されつつあるものであった」という文章を引用しているp139。そして「国に二君はなく、民に二人の君主はいない」は顕著に日本的だと述べているp140。「インドやチベットの夥しい文献にも、こういう強調のしかたは見あたらないようである。キリスト教の優勢であった西洋にも見当たらぬであろう」p140。確か西洋では君主にも教会にも税を納めていた(時代はだいぶ下るが中世の十分の一税など)。
 これを読んで崇峻天皇弑虐しいぎゃくした蘇我馬子などはどんな気分だっただろうか?のちの上宮王家滅亡につながったのでは、などと穿うがった見方をついしてしまう。

十七条憲法は議論することを重要視している

 十七条憲法が第一義に官僚に求めたこと。それは喧嘩腰にならずに(和やかに)議論をせよ、ということだ。
 中村は「独裁を排し、衆とともに論ずるべきことを教えている」p137と表現している。「日本における君主政治は、独裁制とは異なるものとして発展した」p137と。
 第一条と第十七条をつなげてみてみよう。

 第一条 おたがいの心が和らいで協力することが尊いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通しているものは少ない。だかた君主や父に従わず、あるいは近隣の人々と争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p229

第十七条 重大な事柄を一人で決めてはならない。必ず多くの人と議論すべきである。小さな事柄は大したことないから、必ずしも多くの人々に相談する必要なない。ただ、重大な事柄を議論するにあたっては、過失がありはしないかという疑いがある。だから多くの人々とともに論じ、是非を弁わきまえてゆくならば、その事柄も道理にかなうようになるのである。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p236

 要するに、困ったことはみんなで協力しあえ、和やかな雰囲気の中で話し合え、と言っているのだ。「国の一大事」のような大切なことを隠し立てする必要のない空気を作れ、お互いに協力し合う心持ちで話し合え、と言っているようだ。
 これは記紀神話の天岩戸の話に通じる。太陽が隠れてしまう、という危機に際して、神々が話し合いを持つ。そしてアメノウズメに踊りを踊って、祭りによって誘い出す、という絶妙なアイディアをそれぞれが役割を担い実行する。中村は和辻哲郎の『日本倫理思想史』から「日本神話の物語っている古い政治のやり方は、主宰神威は君主の独裁ではなくして、河原の会議である。衆論を重んじないところに会議など行われるわけはない」を引用しているp137。
 また、江戸時代末期に「昨今の黒船来航に関してみなの意見を広く求める」と、高札を出した江戸幕府の態度にも通じる。マルクス史観によればこれは「(独裁政権である)徳川幕府の力の衰えの表れ」ということになるようだが(結果的にはそういう側面もあったようだが)、日本の危機に対する伝統からいえば、まさに伝統に則った態度ではないだろうか?これによって多くの人々の心に『国防』への火がともったのである。

十七条憲法は官僚に向けてその心構えを説いている

 聖徳太子は非常に具体的な官僚の心構えを説いている。に入りさいに入りと言ってよいほどだ。
 官僚よ、人格者たれ、と説いているのは第七条だ。

第七条 人にはおのおのその任務がある。職務に関しては乱脈にならないようにせよ。賢明な人格者が官にあるときにはほめる声が起こりよこしまなものが官にあるときには、災禍や乱れがしばしば起こるものである。世の中には、生まれながらに聡明なものは少ない。よく道理に心がけるならば、聖者のようになる。ことがらの大小にかかわらず、適任者を得たならば、世の中はかならず治るものである。時代の動きが激しいときでも、ゆるやかなときでも、賢明な人を用いることができたならば、世の中はおのずからゆたかにのびのびとなってくる。これによって国家は永久に栄え、危うくなることはない。ゆえに、いにしえの聖王は官職のために人を求めたのであって、人のために官職を設けることはしなかったのである。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p232

最後の一文。天下り先の創出に汲々としている現代ニッポンのお役人さんたちに聞かせたい。適材適所を説いてはいるが、誰かのためにポストを作っちゃいけない、と言っているのだ。

 著者 中村によれば「聖徳太子は、日本の歴史において善と悪とをはっきりと対立的にもち出した人」なのだそうだp133。「新たに確立された統一国家の中心となるのは官僚であるから、官僚のあいだで道義心が確立されていなければならない。善を尊び悪を憎む精神が養われていなければならない」p133。第六条には以下のようなことが書いてある。

第六条 悪を懲らしめ善を奨励するのは昔からの良い習慣である。悪を見たなら必ずそれを止めさせて正しくさせよう。他の人の善は、隠さずに顕にしよう。へつらったり欺いたりするものは、上の人々に対しては目下の人々の過失を告げ口し、部下に出会えば上役の過失を悪くいうのが常である。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p231

 勧善懲悪媚びへつらい、告げ口、悪口をいましている。なんとまあ具体的なことだろう!

 さらに聖徳太子は、役人よ、嫉妬してはいけない、と説いている。

第十四条 もろもろの官吏は嫉妬してはならない。自分が他人をそねめば、他人もまた自分を嫉む。そうして嫉妬の憂いは際限がないものである。…聖人が世に現れても、それをしりぞけるならば、ついに賢人・聖人を得ることはむずかしいであろう。もしも賢人・聖人を得ることができないならば、どうして国を治めることができようか

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p234-p235

嫉妬していては、新しい才能を潰してしまうし、そんなことをしていたら、国は発展しないのだ、と。

 第五条訴訟に関することなのだが、これもまた具体的だ。こういう行為やケースをたくさん見てきたのではないか、と推測してしまう。

第五条 役人たちは飲み食いのむさぼりをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。…訴訟を取り扱う役人はとかく私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂わいろをとって当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは…たやすく目的を達成し、反対に貧乏人の訴えは…とても聴き入れられない。…こんなことでは、君に使える官吏たる者の道が欠けてくるのである。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p230-p231

これは、むしろ現代においては政治家に伝えたい気がするのは私だけだろうか?現在の賄賂は外国からやってくる。海外の意向をすんなり通して、国民、国益を考えない政治家たち。ここ30年ほどの緊縮財政で国力は衰え、国民は貧乏になって賄賂もたっぷり送れないのだ。こうして国力はますます衰えていく。ま、この状況を作ったのも、国民なんですけど、ね。「パッと」魔法のように何もかもが改善する…小泉旋風の時にそう期待し選択した国民。「上層部はそんなにひどいことはしないだろう」と楽観視し過ぎている国民。もっと自分の頭で考えて選択・行動していく必要がある。…古代の帝王にかこつけてこんなこと言ってしょうがない!?のかもしれないのだが。

十七条憲法は和を重んじている

 和を重んじたのには2つの意味がある。一つは分裂していた勢力を一つにまとめ共同体意識を醸成するための和。もう一つは仏教という観点から見た和である。

共同体の原理としての「和」
 「ある文化圏全体にわたっての統一を図るということになると、そこで「和」の精神が強調される…部族対立を超克したところに普遍的国家が成立したのであるから、そこにおいて、まず第一に力説されるのは、共同体の原理としての「和」である」p121。
 「この和の思想が、憲法十七条全体を通じて強調されている根本のものである。「和」が説かれているのであって、単なる従順ではない。ことを論じて事理を通じせしめる議論そのものが、互いに会話というか、協和というか、その気分の中で行われる」p122。
 これらのことは、上記の第一条を見れば、明らかであろう。
 「西蔵チベット王記』に伝えられている十六条によると、第一条として「争う者は罰すること重し」という。アショーカ王和の精神を強調している…サマヴァーヤ---和合、仲良くするということをアショーカ王が強調した。これが仏教に基づいていることは、いうまでもない」p121-p122。
 もう少し具体的には、アショーカ王は「粗暴・乱暴・憤怒・高慢・嫉妬…は汚れに導くものである」ソンツェンガンポ王は「あらゆる人に平等にして、嫉妬なきこと」「言葉は柔和にして、言葉少なきこと」「挙動は高邁にして、内心は寛容なること」を説いているp126。
 西洋の場合はどうか。西洋人は議論好きである。「和をもって貴しとなす」をコンスタンチヌス帝は権威という力で解決した。政治的、軍事的成功を博した後、最も憂慮すべきは教会における宗教的事項に関する議論であった。そこで帝の意向でニカイヤの第一総会が開催されることになった。激しい論戦の仲介は骨が折れるものであるが、結局コンスタンチヌス帝の提案を受け入れた側が多数派となり、全教会にこれを受け入れさせたp124。

仏教的精神と和
 聖徳太子は仏教を日本の精神的支柱にした。十七条憲法の第二条

第二条 まごころをこめて三宝をうやまえ。三宝とはさとれる仏と、理法と、人びとの集いのことである。それは生きとし生けるものの最後のよりどころであり、あらゆる国々が仰ぎ尊ぶ究極の規範である。いずれの時代でも、いかなる人でも、この理法を尊重しないということがあろうか。人間には極悪なものはまれである。教えられたらば、道理に従うものである。それゆえに、三宝にたよるのでなければ、よこしまな心や行いを何によって正しくすることができようか。

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p229

 この第二条は、仏法が普遍的なものでどんな人でも従うべきものだということ、もう一つは「徹底的な悪人はいないという思想で、これは仏教では非常に重要である」p 129。
 「西洋では悪人は絶対に救われない神に背いたものは、地獄に落ちてしまう。そこには永遠の罰が待ち受けている。ところが東洋には徹底的な悪人に対する憎しみという概念はない。悪人も悪の報いを受ければ、いつかは救われる。東洋思想と西洋思想との根本的な相違が、こういうところに現れているのであり、聖徳太子の言葉は非常に意義が深い」p 130。
(一方で時代はだいぶくだるが「法然や親鸞の「悪人正機説」は、キリスト教の「心の貧しい人は幸せである」と同じものか」という問いもある。だが魔女狩りのようなことが行われなかった、ということは何か根本的な違いが東洋と西洋ではあるのかもしれない)。

 聖徳太子は「和」を重んじて、当時の社会規範にしようとしたが、「事理を通じせしめる」和らぎのある議論をするためには、「ともにこれ凡夫のみ」という人間相互の自覚によってのみ可能なのだと説かれているp126
 第十条を見てみよう。

第十条 心の中で恨みに思うな。目にかどを立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。人にはみな思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分が必ずしも聖人ではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。両方とも凡夫に過ぎないのである。…それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ

聖徳太子: 地球志向的視点から 十七条憲法 [口訳]より p233

最後の方の部分は、今であればエネmeとか同調圧力とか言われそうであるが、千四百年前からの習い性なのだ。むしろ千四百年前はそうでない人もいっぱいいて「困ったちゃん」と思われていたのかもしれない。
 いやいやそこがポイントではない。「お互いに凡夫である」という気づきからくる尊重が大事なのである。これは十分現代でも通じる話なのではないだろうか。
 こうしたことは仏法に由来していて、アショーカ王は「粗暴・乱暴・憤怒・高慢・嫉妬…は汚れに導くものである」なので自省するようにと説き、ソンツェンガンポ王は「三宝を信仰し敬うこと」「仏法を求め、これを成就すること」を説く。仏法を成就する、とは無用な争いから離れることでもあるからだp128。

 「すべての宗教にわたってそれらの説く普遍的な理法を承認するというところに仏教の本質は極まるのである…」p131「このような仏教の特性ゆえに、聖徳太子もソンツェンガンポ王も、ともに仏教を尊崇しそれに帰依したにもかかわらず、民族固有の信仰を禁止したり抑圧したりすることがなかった。それぞれ土着の信仰として、日本では神道が、チベットではボン教が、今日にまで依然として存続している。ミャンマーでは精霊の信仰が民衆の間ではなお行われている。シナでは仏教と道教が融合している」p132。また 「古来日本人の…間には現象界のすべてのものにその絶対的意義を認めようとする強い方法が働いているが、それによるならば、人間の現実世界におけるすべての思想にいちおうはその存在意義を認めることになる」p 132とも述べている。

そのほか普遍的帝王と比較する視点

 そのほか、他の普遍的帝王と比較するための視点として、中村が挙げているものには、以下のものがある。
 いずれも帝王を比較するためには重要な視点であるが、ここでは多くを述べない。関心のある方は、ぜひ本書を直接お手に取ってください。

 文化交流政策
 人道主義的活動
 社会奉仕の精神

まとめ

 中村には聖徳太子の偉大な事績を、比較対象と比較して、日本の独自性や聖徳太子の独自性、また聖徳太子の精神を明らかにしたいという意図があった。
 そのために中村はまず比較対象として古代に活躍した『普遍的帝王』を定義した。『普遍的帝王』にはインドのマウリヤ朝アショーカ王チベットのソンツェンガンポ王ローマ帝国のコンスタンチヌス帝などがいる。
 聖徳太子の独自性の一つは官僚を対象にした十七条憲法を発布したことにある。そこで十七条憲法を軸に『普遍的帝王』と比較したところ、十七条憲法、すなわち日本の独自性として

  1. 君臣民の関係を説いている。

  2. 議論することを重要視している。

  3. 人格者たる理想の官僚像を説いている。

  4. を重んじる。

などが挙げられることを確認した。特に1, 2が独自であり、君=天皇の権威を絶対的なものとしながらも、ことにあたっては議論で決めるという、独裁主義ではない我が国の伝統十七条憲法は反映している。和を重んじることに関しては、共同体を統一維持するためには、どの帝国においても必要なことであり、また仏教国においては無用な争いから離れること、などはどの帝王もある程度重要視していた。日本の独自性を担保しながら律令国家に相応しい官僚像を説いたことに聖徳太子の独自性を見ることができる。
 また内容もさることながら十七条憲法は、簡潔で風格に富んだ名文であると多くの学者が評価している。漢文で書かれた十七条憲法は当時の隋や続く唐などでも理解され、一定の評価を受けたことだろう。つまりこれは内政文書であったと同時に外交的にも我が国の国家レベルを示す重要な文書であった。こういう点でも聖徳太子の独自性が現れているといえよう。

長い記事を読んでいただいて、ありがとうございます。

 

引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。


おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。

中村元東方研究所  https://www.toho.or.jp/

仏教と天皇、上皇の関係

お妃を唐とネパールから迎える王子さま。それぞれが自分の地の仏教をチベットにもたらした。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/209096/1/Himalayan-17-146.pdf

和辻哲郎 日本倫理思想史



noteにお祝いしていただきました。

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