河内の霊場・紅葉めぐり <後編>
前回の記事です。
↓ ↓ ↓
「せんせ、今度はどこ行くんやて?」
「な・ん・ぴ・あ・ん」
「これやな。なんぴあん かんのんじ」と言いながらスマホで検索する。
ナッツカフェで満腹になって、次の目的地へと向かいます。
先ほどの「弘川寺」は西国薬師霊場でしたが、今から行く寺院は西国観音霊場のひとつです。
基本的にお祀りしている仏様が違います。
薬師は如来
観音は菩薩
如来と菩薩はランクが違う
仏様には以下の通りのランクがあります。
1位 如来
2位 菩薩
3位 明王
4位 天部(毘沙門天、帝釈天)
5位 垂迹(権現)
最高位の如来だけは悟りを開いている仏であり、成仏しているため生まれ変わる事もありません。
最高位中のトップは「大日如来」です。
しかし菩薩以下は仏を目指して天上界にて修行中であり、成仏しているわけではなく、まだ六道輪廻の中にいるため転生する可能性もあるのです。
「如来」の特徴として、髪型は螺髪、服装は布を巻き付けたようなシンプルなものですが、菩薩は冠やイヤリング、ネックレスなどアクセサリーを付けて着飾り、人間臭い欲も感じ取れます。
「如来」は地味、「菩薩」は派手。
特徴を捉えていると、訪ねた寺院のご本尊を一目見て、「如来」か「菩薩」か判断できるのです。
今回、たまたま訪れた寺院のご本尊は薬師如来と観音菩薩で、上位2つの「如来」と「菩薩」だったのです。
ですからご本尊の格だけで言うと、最初の「弘川寺」の方が高いという事ですね。
河内西国観音霊場二十番・楠妣庵観音寺
先ほどの「弘川寺」はリンさんが提案してくれたのですが、次の寺院、「楠妣庵観音寺」は私が提案しました。
スケジュールに余裕があるので、どこかもう一軒を検索していると、十分寄れる位置に楠木正成こと楠公さんゆかりのお寺を見つけたのです。
寂れた案内板に従って駐車場に到着するも、そこは完全に山中であり、寺の姿はまったく見えません。
おまけに地面もぬかるんでいて、駐車場というより田んぼの出来損ないのようなただの広場に、私たちは不安になりました。
詳しい案内板も見当たらず、辺りを右往左往しましが、やっとそれらしい急坂を見つけて登ります。
ここまで辺鄙な寺も初めてで、木々が生い茂って薄暗く、とても一人では怖くて来れません。
何人かのグループだからこそ立ち寄る事ができるところでしょう。
この時点で、私が提案した寺だけに、今回の根本的な主旨である紅葉も大した事なかったら、全員をガッカリさせてしまうことになり、不安はマックスになっていたのです。
🍁「楠木一族」ゆかりの臨済宗の寺
急な坂を息を切らしながら登りきると、黄色に染まった大きな銀杏の木を背にした山門を見つけて、やっと安心しました。
小高い丘のてっぺんなので、日も射してスポットライトを浴びているようです。
楠木正成が湊川の戦いで戦死したあと、嫡男・正行が後醍醐天皇を弔うために建立したのが始まりで、その3年後の四條畷の戦いでその正行も弟の正時ともに討死してしまいます。
その後は3男である正儀が一族の菩提寺として保護したと伝わります。
🍁南北朝合一に貢献した楠木正儀
その後、楠木家三男の正儀は、討死した父や兄たちの意志を継ぎ、南朝の総大将として活躍し、京を北朝から4度も奪い返しました。
軍記物「太平記」では暗愚に描かれてはいますが、実際には初めて槍を多用したり、真っ向から戦うだけでなく|兵站《へいたん》・調略・後詰といった戦略を重視して、軍事的に多大な功績を残しているのに、なぜか評価されていません。
生年も没年もハッキリしないのですが、1392年の南北朝合一のおよそ3年前に没したと推測され、合一が成立した明徳の和約へと至ったのは彼の尽力も大いに関係があるはずなのです。
🍁「楠木母子像」は子を諭す有名シーン
楠木正成正室の久子は、夫と息子2人の没後、この敷地内の「観音堂」のかたわらに結んだ草庵で16年間隠棲します。
出家した久子は敗鏡尼と名を変え、十一面観音を奉祀して、一族の菩提を弔い続けました。
湊川の戦いで討死した正成の首級は、敵となった足利尊氏により敬意を込めて家族の元に届けられます。
それを見た嫡男の正行が後を追って自刃しようとしたところ、母の久子が制止して諭しているシーンが「楠木母子像」なのです。
世の憂きも 辛きも忍ぶ思いこそ 心の道の誠なりけり
久子が隠棲した草庵は驚くほど小さく、母子像の置かれたところも木々が覆い茂って昼間でも薄暗く、彼女の痕跡はあまりにもひっそりとして、その風化しそうな様子に侘しさを感じずにはいられませんでした。
🍁最後にちょっとしたアクシデント
私たちは急坂を登って南の山門から入ったのですが、「楠木母子像」を見るために、東の山門から降り、そのまま行きとは違う山道を散策しながら帰るつもりでいました。
しかし。
東山門の急な階段を下りて、いざ行こうとすると、チコさんだけが御朱印をもらい忘れているのに気付き、一人でまた昇ると言い出したのです。
東の山門もそれは急な階段で、これをまた往復させるのは可哀そうに思い、全員でまた昇って元の位置に戻る事にしました。
そう言えば。
境内に入って早々、チコさんはサッサと敷地内の丘へと上がってしまったので、私はチコさんに
「御朱印はここやで」と、下から寺務所を指さして声掛けした時、
「うん」と確かに返事をしていたのです。
それをまったく覚えていないと聞き、ちょっとドン引きしてしまいました。
私たちはいつもそれぞれの行動は自由で、好き勝手に動きます。
私は言うだけ行って返事を聞けたので、そのうち隙をみて行くのだろうと安心していましたが、そうではなかった!
これは抜け目ないチコさんには珍しい事で、メンバー全員がポカンとしてしまったのです。
こんなこともあるんやなぁ💧
寺務所の方ともお話したのですが、
南北朝時代が大河の舞台にならないかな。
できたら楠木一族を中心にしてほしい。
このお寺を訪ねてさらに強く思ってしまいました。
珈琲と御菓子のお店「つむる」
最後には「つむる」というお店で、お茶タイムとなりました。
先ほどのランチもそうでしたが、こちらもわが「食いもん奉行」のミコさんのおすすめなのです。
実は、予定通りの16時に到着しなければならない理由がありました。
最初の「弘川寺」の駐車場に着くやいなや、メンバー全員からケーキをどれにするか聞いて、すでにオーダーしてくれていたからです。
知る人ぞ知る人気店につき、夕方まで手作りケーキが残っている可能性が薄いらしく、当日のインスタで確認して電話して欲しいと言われていました。
ミコさんが窓口になっていたので、「楠妣庵」の中では、内心はやきもきしていたようで、にわかに先頭きって小走りになりました。
「駐車場から5分歩くけどいけるか?」と私に聞くので、
「そんなん大丈夫やで!」と即答していたのですが、
「ほら、あれやねん。」とミコさんが指さす前方を見て、愕然としました。
なぜなら、「つむる」の黄色い屋根は、はるか上の丘のてっぺんにあったからで、徒歩5分と油断していたのを瞬時で後悔しました。
しかし、ここまで来たら気合を入れて登るしかありません。
途中の坂は予想通りの急勾配で、お城のような民家の石垣の間を縫って、力を振り絞って登り切りました。
最後の最後にこんなに体力を使うとは、思ってもみませんでした。
それでも、しんどい思いをしてやってきた甲斐はありました。
めちゃくちゃオシャレで、ケーキが手作りの上、コーヒーも自家焙煎なので、豆の煎り具合まで指定でき、ものすごくポリシーを感じる良いお店でした。
まだ若いご夫婦で1歳未満の子供を抱えて営業されているのです。
ご主人が赤ちゃんを背負いながらキッチンに立たれているが、とても微笑ましい光景でした。
あとがき
今回の河内の霊場巡りの<前編><後編>ともに、見出し画像はロコさんの撮影によるものです。
センスあるでしょう??
昨年の素晴らしい写真はリンさんによるものでした。
なんだかんだと、アングルや設定を吟味しながらの撮影は、すでにプロ並みになってきました!
確かに、リンさんもロコさんも、いつも撮影にはこだわっていますから。
私は歴史、
チコさんは地図、
ミコさんは食事、
写真はリンさんとロコさん。
それぞれが好きな分野で、徐々にその道を極めてきたようです。
これからも、それらの「こだわり」を十分生かした紀行を目指していきたいなとあらためて思いました。
【昨年の紅葉紀行】
【参考文献】
・河内西国霊場会
・如来と菩薩はぜんぜん違う!
・Wikipedia
先週のお祝いボードです。いつもスキをいただきありがとうございます。