【大学生が批評に挑戦】読書と勉強
今回は、カナダ…..から離れて、オフトピックなことを書きたい気分なので、「読書」について書き連ねたいと思います。今回は思想が強いです。ちなみに異論は認めます!!!笑
普段から、日常的などうでもいいこと(パン派かご飯派かとか)から割とシリアスな話題(時事とか人生観とか)まで考えたり思慮するのが好きなんですが、今回は気づいたら4,000字近くいっております。時間のある方、どうぞ見ていってください。
※本トピックは、個人的に唸った以下のnoteにインスパイアされて執筆するものです。
イントロダクション
まずは、上記noteの要約から。
要約
注意
上記noteでは、どちらが良い悪いという議論をしているのではなく、専ら「読書という言葉の定義の曖昧さ」に焦点を当てています。
「読書」本か「勉強」本か
上記で「読書」と「勉強」について整理しました。こちらしっかり違いを認識したうえで、もう一つ僕の定義を以下に示します。
「読書」タイプの本
言葉の通り、読者が専らその知的好奇心から、活字による創作物それ自体を楽しむための本を指します。例えば、純文学、現代小説、エッセイ、外国文学などです。
「勉強」タイプの本
読者が活字を読むということを通して知識や情報収集、勉強するために書かれた本を指します。上記noteでは「新書」や「自己啓発本」が例として挙げられています。
もちろん、名前をみれば一目瞭然ですが、「新書」は間違いなく「勉強」タイプの本と言えるでしょう。僕の場合「ウェーバー入門」とか手に取りましたが、まだ手を付けてませんね。。。笑
ルポタージュなんかも新書の形式に含まれることが多いです。
まあ、ここはあまり異論がないかと。
「自己啓発本」、これどうでしょうか。最近はビジネス書から、『20代で得た知見』のような、エッセイ形式の自己啓発本もあります。生き方や成功の秘訣といったことを「学ぶ」という意味では「勉強」とも言えますが、学術的客観的な「新書」よりも、著者の成功談や思想、生き方といった主観的要素が入ってきます。そういった勉強的な要素と創作的な要素を含みうる「自己啓発本」はなんとも絶妙な位置にいて、「読書」とも言えそうなジャンルですね。
さて、定義を踏まえたうえで、「自己啓発本」は「読書」と呼ぶに相応しいといえるのでしょうか。
自己啓発本は「読書」か
あえて言うなら
差し障りのないことを言っても面白くないので、あえてControversialに言いましょう。個人的に自己啓発本は「読書」と呼びたくありません!!!(叫び声)
以下弁明します。
①内容が主観的個人的で共感を呼ばない
一般的に、自己啓発本はどうしても経験談ベースなので、内容が主観的且つ個人的になります。そのため、どんなにその内容が凄くても、なかなか共感できないというのが本音です。例えば、サクセスストーリー系の本なら、著者の成功談はまさしく著者自身の成功談であって、どうしても「時代が違うしなあ」「能力もスキルもちがうしなあ」と境遇が同じではないために共感がしづらいです。
中には成功してすらない、聞いたこともないお前誰やねんって人が書いてたりしますね。その場合、ぶっちゃけ言葉に重みがないです。。(スティーブジョブスとかが言うなら話は別です。)個人的にはですが、「この本がこう言ってたからこう」、と迂闊に物事を受け入れてしまうこと
には、抵抗感があります。やはり、どこの誰とも知らないそれっぽい意見をそのまま自分のものにするのではなく、自分自身で考えて、試して、見て、聞いて、意見を持ちたいものです。
以下、更に攻撃的になりますすみません。。。
上記に追加して、自己啓発本の典型的な愛読家にあるような「浅はかな姿勢」にどうも懐疑的です。自己啓発本を読んで頭が良くなった気でいたり、読んでも模倣だけで自分では何も工夫しなかったり、周りの友達が読んでるからとか、自己啓発本に特有なそれらしい文章を読んでいる自分が好きなだけだったり。。。
自己啓発本が主観的個人的であるにもかかわらず、それと読んでいる自分自身をいとも容易く重ね合わせてしまうその浅はかさが、、、これ以上は口を慎みます。
(毒を吐き終わりました、悪しからず)
②カネのにおいがする
自己啓発本の、タイトルの在り様がどうも臭います。「~稼ぎ方!」とか「成功の秘訣」だとか「幸せ云々」とか。。。読者の「知的好奇心」というよりは「欲求」に希求してくるようなタイトルコールが、どうも本質的な「読書」とはかけ離れたものように感じてなりません。
例えば、お金が人生を豊かにすることは僕も疑ってはいませんが、この資本主義という階層社会に毒された世の中で、「読書」という必ずしも目的合理主義に適わない、極めて原始的で人間的・創造的活動をするときでさえも、「お金」だとか「成功」だとか「地位」といったトピックに触れることは、個人的になんだか躊躇われるような気持ちになります。
本来的には、「読書」という個人的な時間と空間においては、社会とはいったん離れて、自分の感受性や知的好奇心に寄り掛かり、自分とその本で展開されている世界に没入するものであるべきです。従って、自己啓発本にあるような、我々を軽率かつ無条件に現実世界に引き戻し、釣るような謳い文句は、僕の目には「読書」の本来の在り方とは、どうも離れたもののように映ります。
③作者と著者の違い
3つ目の理由は、自己啓発本が~というより、「読書」タイプの本と「勉強」タイプの本を混同すべきでない、という理由になります。
実はこのnote内で僕は「作者」と「著者」の意味を使い分けています。「作者」は「読書」タイプの本を執筆した者、「著者」は「勉強」タイプの本を執筆した者、としていました。
ここで、ようやく使い分けをしてきた伏線を回収することになります。「読書」タイプの本と「勉強」タイプの本の違いの1つに、それぞれの執筆者の努力、苦悩の性質が異なってきます。
つまり、「読書」タイプの本の執筆者すなわち「作者」の主たる苦悩とは、自身の世界観や思想を、文学的に卓越したスキルと、ときには自身の個人的な背景や心情や経験を交えて、それを活字という1つのコミュニケーションツールに昇華させるそれ自体の行為であるといえます。(一言でいうと、「作者」の目的は活字で表現することです。)
対して、「勉強」タイプの本の執筆者すなわち「著者」のそれは、執筆プロセスの前段階である調査研究であったり、内容物である成功談そのものにかけた努力が主たるものであって、文学的にそれらを活字に昇華させることそれ自体にフォーカスしているわけではないように思います。(一言でいうと、「著者」の目的は活字で情報を伝達することです。)
どちらが優れているとかという話ではなく、単純に物の進め方、活字の存在意義が若干違います。ただ、「読書」という文学的行為においては、「作者」の文学的苦悩に思いを馳せることの方が、より「読書」のイメージに接近すると思います。
例えばですが、夏目漱石や三島由紀夫といった文豪らの作品は、当時の時代的な背景や「作者」(彼ら)自身の苦境や思想が、登場人物の心情といった物語の内容に反映されていたりします(特に三島なんかは壮絶な人生ですね、特別ファンとかではありませんが)。そういった、1つの作品に昇華する際の「作者」の苦悩や情緒が、人間的な深みとして本の活字に現れてくるという点で、「読書」タイプの本と「勉強」タイプの本とでは、その活字の重みが違うように感じます。
これが、「読書」タイプの本と「勉強」タイプの本を読むことを一緒くたに「読書」と呼んでしまうことに対して違和感を感じる、最後の理由になります。
最後に
「勉強」タイプの本を読むことを否定しているわけではまっったくありません。むしろ、「新書」なら情報収集として、「自己啓発本」なら一意見として、むしろ有益と思います。問題は、最初でも紹介した通り、言葉遊び的に、なんでもかんでも「読書」と言い得ることには注意が必要である、という結論に帰着します。
僕も上記noteを拝読する前までは「勉強」と「読書」の違いは意識したことがなかったし、読んだ後は1つ面白いインサイトを得た気持ちになりました。些細で、普段は気づきもしないような、けど気づくと面白い(頭を使わせてくれる)、そんなトピックをまた見つけたいと思います。
p.s. 次回はまたカナダ留学にcome backします