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薔薇の沈黙リルケ論の試み─辻邦生

沈黙──バタイユ氏を僕は思った。

バタイユの沈黙について前回の記事でも少し触れている。

沈黙、静寂。

静寂は例えば音楽でいうと楽譜の休符。
今になって、妻に「そこは休む場所じゃないのよ?」と言われることに別の意味を僕は見出せた気がする。

絵や音楽というのは、沈黙あるいは静寂に実は支配されているんじゃないか?

それは絵や音楽だけではない。
テクスト、エクリチュールもそうだろう。

もっと言えば、自然。

例えば、森の中や夜の国道、海に浮かぶ月明かり、東から登る太陽の侵食。

沈黙や静寂に支配される世界は二項対立的なものを全て拒否し、事物全てを境界の曖昧なグラデーションにする。

生と死も含めて。

そうした音にならない、もっと言うと、声にならない声、表象すら拒絶する事物というのは、「無意味」に属するように思う。

ところで、「無意味」と「笑い」は切っても切り離せない関係がある。

なぜなら、笑いというのは期待していたことや論理的なこととの差異から生まれるからだ。

だからこそ、「笑い」に触れたとき、我々は世界の深淵を見る。

しかし、これは意識と心が盲目的でないことが条件である。

この盲目的とは、ジョゼ・サラマーゴの著書『白の闇』の盲目の世界と同様かもしれない。

誰かのために、と真摯な《愛》があるなら盲目にはならないのかもしれない。

作中の医者の妻が盲目にならなかったひとつの理由付けを僕は勝手にしてみた。

だって、その方が素敵だから。

辻邦生さんのリルケ論『薔薇の沈黙』筑摩書房を読んだ。

著者は《固有の死》と《誰のでもない死》を軸にリルケの内部空間、あるいは、存在論的にリルケの内面──《薔薇空間》に迫って行く。

マルテの《固有の死》を奪還することはリルケにとって近代化していく最中の社会の空虚さとの闘い。

リルケが対象の世界から自分自身の豊かな世界、《薔薇空間》へ転換させることに成功した様を丁寧に綴る著者。

僕がInstagramに投稿した感想の一部

Instagramに感想を投稿し、リルケの『秋』を眺めていたら、そんな風なことをぼんやりと考えていた。

『秋』

木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる

そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる

われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある

リルケ 富士川英郎 訳

落下が、万物の生死だとして、それらを限りなくやさしく両手で支えるのは秋の母なる大地、空、宙。

リルケの薔薇空間にスピノザ的あるいは禅的な世界を見た気がする。

形而上学的ないくつかの事件──シュメール人による暦の発明、キリスト教誕生、産業革命、インターネットの普及──が重ねられる度に、僕たちは取り返しのつかないこともし続けてきて、遂には「無意味」の中にある世界の深淵、リルケの薔薇空間的なものを見えづらくしてしまった。

今日、悲しいニュースがあった。
僕の好きな画家、モネの絵にマッシュポテトが投げつけられた。
何かを主張するとき、暴力による主張は怒りや憎しみのスパイラルを生み出すだけだ。
主張、反対、抗議の仕方が暴力的でないのが本来なら理想である。
そのための形而上学的いくつかの事件があったのではないだろうか。

僕が今起きていて、深まる秋の夜を現存させているならば、静寂の中で平和を祈る。

ある日の裏山。練習中のショパンのプレリュード 28-21の「秋の感覚を知るには落ち葉を踏みしめないといけない」と妻に言われて散歩した。

目を開き、耳を傾けてると、芸術、自然は時として沈黙の中に大事にしなきゃいけない真実を語って聴かせてくれる。

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