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ハードボイルド書店員日記【111】
「あの、すいません」
平日の16時22分。退勤までまだ少し。自分の仕事は終わった。残りの時間は休んでいる人の分を手伝う。ブックトラックを空けておかないと、明日の朝の荷物が置けない。
学習参考書の補充分を出す。「ターゲット」シリーズは10代の記憶。令和になっても時空を超えて積まれている。まるでゲーテか司馬遼太郎だ。化学基礎と化学はどう違う? 赤本の種類が増えている。国際教養学部なんて聞いたことがない。
「担当の方ですか?」振り向く。学ランを着た高校生がこちらの顔を窺っている。白い不織布マスクを着け、小柄で背中が丸い。「この棚の?」「ええ」しばし逡巡。正直に答えることにした。「申し訳ございません。担当は本日お休みを」「わかりました」終電で帰るサラリーマンの足取りに見えた。「何かお探しでしたら」「英単語集を買いたいんです。どれがいいかわからなくて」
ベストセラーや定番を勧めておけば間違いない。しかしそれだけならアマゾンでもできる。「英語は好きですか?」「えっ」目を見張っている。そんなことを訊かれるとは思わなかったのだろう。「まあ……得意ではないですけど」「外国で働きたい?」「そう、ですね」否定しなかった。「働くというか向こうの院で研究を」
「だったらこちらがオススメです」アイシーピーから出ている「DUO3.0」を手渡した。「私が学生の頃からずっと人気の単語集です。実際にネイティブが日常やビジネスシーンでどういう表現を使うかを意識した例文が載っていて、時代のトレンドも押さえています。受験が終わってからも役立つかと」「役立ちましたか?」今度はこちらが「えっ」だ。なかなかやる。「大学で国際交流をしていたので助かりました」「へえ」目尻に皺が浮かぶ。「そういうのいいですね。受験勉強をしていると時々虚しくなりますから」覚えのある感覚が唐突に蘇った。
大丈夫。私の頃にはなかったが、いまは「あの本」と出会える。
「ちょっといいですか?」講談社文庫の棚に行き、森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」を平積みから取る。これも安定のロングセラーだ。「よかったらこちらも」「小説はあまり」「大学院に進学した主人公がさまざまな人と出会い、研究に没頭するストーリーです」「どこの大学院ですか?」ツッコミが鋭い。「理系なのはたしかです。自伝的小説とされていますが、森さんは名古屋大学工学部建築学科を卒業し、そこの院に進学しました」無言でページを捲っている。
記憶の底を浚った。
「したくないこともしなければならないけれど、それは、したいことをするために必要な準備、あるいは練習だと考えた」
訝しげに顔を上げる。「はい?」「12ページにそう書かれています」視線を本に落とし、またこちらを見る。「すごい」「たまたまです」「他にも暗記してますか?」「55ページ。『受験勉強というのは、やみくもに覚えた者が勝ってしまう。それが知識量であり、学力ということになる。その知識を使う能力は問われない』」
自分の目で確かめるのが彼のいいところだ。明らかに表情が変わっている。
味をしめた。
「たしかこの辺りにも」本を受け取り、109ページを開く。「既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ」虚ろな闇を称えていた瞳に何かが煌めいた。
「この主人公も英語が苦手です。先輩に教わりながら一緒に勉強するエピソードがなかなか」本を返す。まさに「静かな世界」が現出した。没頭する眼差しは長年の仇を睨むようであり、且つ意中の相手を見つめる熱も感じさせた。
再び顔を上げる。もはや別の人物だ。「これ、いただきます」「かしこまりました」「小説を買ったら怒られるかな」参考書代の名目でお金をもらったのだろう。
「主人公に英語を教えてくれる先輩は実家がお金持ちで、アルバイトをしていません。しかしそんな自分を隠さず『お小遣いって素敵な響きだよね、大好き』と話しています」「それでどうなるんですか?」「アメリカの大学院へ進学しました。半年後には助手に」だから君もそうなればいい。そうなると宣言すればいい。
会計を終えて出口へ向かう。メフィストフェレスと契約したファウストの歩調で。つい右手で庇を作った。見据えた未来へ直線で進む背に眩さを感じた。きっと私にもあんな時代があったのだ。
もう退勤か。時よ止まれ。君の流れはいささか早すぎる。
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