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ハードボイルド書店員日記【200】

「すいません、ちょっといいですか?」

暑さの続く平日。ゲリラ豪雨に備え、連日折り畳み傘を鞄へ忍ばせている。雨が降って涼しくなるならまだしも、湿気が増すだけだったりするからやり切れない。

品出しがひと段落した昼下がり。姿勢のいい女性に声を掛けられた。見覚えがある。先週息子さんと一緒に来て「ドラえもん」(小学館)の11巻を購入してくれた人だ。今日はひとりらしい。

「いらっしゃいませ」
「あの、先日こちらでお買い物をした際に、井伏鱒二の『黒い雨』についてお話をしてくれた店員さんが」
「たぶん私です」
「え? あ、ホントだ。ごめんなさい。失礼しました」
こちらこそ申し訳ない。地味で特徴に乏しくて。ちなみにお客さんが覚えていて書店員が忘れているケースも少なくない。
「『ドラえもん』の原作はどうですか?」
「なんか玄米って感じでした」
「玄米?」
「各種の栄養素が残ってる。いまの私が見ると、アニメは楽しいけど毒気と一緒に大事なものまで削ぎ落とされたような」
「わかる気がします」
「それで、実は探していただきたい本が」
「かしこまりました」

サービスカウンターへ案内し、椅子へ座ってもらった。
「タイトルはおわかりに?」
いえ、と細い眉を曇らせる。
「長崎への原爆投下について書かれた小説があれば」
「ああ」
「あれから『黒い雨』をもう一度読もうと思って。でもよくよく考えたら、私まだ広島のことしか学んでないなって」
「ノンフィクションや歴史書ではなく小説がよろしいですか?」
「あとできれば文庫の方が」
すいません、と頻りに恐縮している。何も問題ない。読みたい時に読みたいジャンルの読みたい本を読む。結局それが最も血肉へ色濃く溶け込むのだ。
「一冊知っています。少々お待ちくださいませ」

文庫の棚から中村文則「逃亡者」(幻冬舎文庫)を抜き取って戻る。
「こちらでございます」
「ああ中村さん」
「読まれてますか?」
「これはまだですが他を何冊か。この人の小説いいですよね。不条理に苦しむ人たちへの目線が温かくて」
「そう思います」
「ただちょっとあれかも」
「あれとは?」
「どの本か忘れましたけど『ぼくは黒いストッキングが好きだ!』みたいな」
「文春文庫の『惑いの森』ですね。在庫ありますよ」
「いや大丈夫です」
右手を大袈裟に振る。顔を見合わせて笑った。
「ごめんなさい、お忙しいのに。それでこの本は?」
「著者は愛知県出身ですが、どうも長崎県にルーツがあるとか。テーマとしてはキリシタンへの弾圧や」
「島原の乱とか?」
「ですね。あと第二次世界大戦における日本軍の実情、フェイクニュース、技能実習制度の問題点などを深く掘り下げていますが、そのなかに長崎への原爆投下も」
ネタばれに留意しつつ、356ページを開いた。そこにはこんな文章が記されている。

浦上の被害は大きく、一万二千人のキリスト教徒のうち、八千五百人が亡くなった。

中村文則「逃亡者」 幻冬舎文庫 356P

だが長崎の原爆を語ることを、日本を統治下に置いたGHQは特に禁止しようとした。当時のアメリカ政府からすれば、このようなキリスト教徒達の受難を世界に知られるわけにいかなかったし、被爆したマリア像など、米国民にも世界にも見せるわけにいかなかった。

同357P

じっとページへ見入っている。広島へ投下された原爆がウラン型で長崎はプルトニウム型だったことも書かれていた。前者があれだけの惨状を招いたにもかかわらず、三日後にまた落とす。その理由をふたつの違いから推し量り、ある結論を導き出すのは決して不自然なことではない。

「他の箇所ではヴェトナム戦争で使われた枯葉剤との比較も」
「これ、いただきます」
席からふらりと立ち上がる。表情が明らかに変わっていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
彼女は同じセリフを数分前にも口にした。しかし意味合いがだいぶ異なる。
「正直言うと、あまり知りたくなかったかも。でも知らないままの自分でいるのはもっと嫌です」

現在の笑顔が消えてしまうのは悲しい。だが未来を生きる者からそれらが失われることだって。お子さんを育てている人なら尚更だろう。だからこそ、イチ書店員としてこういう本を紹介していきたい。

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