ハードボイルド書店員日記【144】
「こういうことしてるから、じゃないすか?」
3連休を控えた平日の午前中。穏やかなレジ時間だが手元は忙しない。絵本をシュリンク用の透明なプラスチック袋に詰める。女性誌や幼年誌に付録を挟み、ゴムで留める。カバーも各種折らねばならない。
一緒にカウンターに入った雑誌担当がぽつりと漏らす。朝礼でレジ誤差が続いていると注意された件についてだ。「俺らは買いに来るお客さんにもっと集中すべきっすよ」「まあな」「だって急いで作業しているときに来られたら『来るなよ』って思ってしまうじゃないですか? 顔や態度に出るかもしれない。本心じゃないのに」きっと全国の書店員が同様の自己嫌悪を経験している。
「待機中は」絵本をシュリンク袋に詰め、なおかつ前方への注意を切らさずに話す。「お客さんが気軽に来られるようにゆったりとした姿勢で立つ。カバーを折る以外の手作業はしない。そういうルールを課している店もある」「ウチも採用すべきっすよ」「でもいまそれをやったら、雑誌や児童書の品出しが時間内に終わらなくなる」「そうなんすよね。俺もレジを出たら抜き地獄が待ってるし」翌日に最新号が出る雑誌を棚から抜く作業だ。量が多い日はかなり時間を取られる。
「そして会社は人員を増やす余裕がなく、残業代も払えない」「結局は人件費すか」「仕方ない」「実店舗の売り上げだけで巻き返すのは厳しいっすよ」「でも俺らにできるのは、実店舗で一冊でも多くの本を売ることだ」「それだけじゃ寂しいっすね」手は止めていない。接客に入ったら意識してスイッチを切り替える。雑談できるならまだ余裕があると見られるのは心外だ。同僚の仕事が古い雑誌を抜くことなら、その内側に充満したガスを抜く作業は誰がやる?
彼のレジに問い合わせが来る。初老の女性だ。「もう少しキレイなのはない?」夏葉社から出ているバーナード・マラマッド「レンブラントの帽子」が手渡された。帯がだいぶ破れている。「お調べします」カウンターの端に置かれたPCのキーを叩く。「申し訳ございません。この一冊しか在庫がございません」「じゃあそれでいいわ。帯は外して」「かしこまりました」乱暴にむしり取る。「あ、バーコードがない」「不良品?」「ですかね」「ちゃんとしたものを注文できる?」おいおい。
無知は必ずしも罪ではない。しかし時に震えを抑えられなくなるほど耐え難い。気がつくと隣へ身を乗り出していた。
「待て待て」「なんすか」「その本は元々裏表紙にバーコードを印刷してないんだよ」「そうなの?」女性が眼鏡の奥の目を丸くする。「珍しいわね」「ご説明致します」代わるよ、と小声で伝えた。会計待ちが4人も並んでいる。ベルを鳴らして応援を呼び、大股で棚へ向かった。
「こちらに答えが」新潮社から出ている島田潤一郎「古くてあたらしい仕事」をカウンターの上へ置く。「この人は?」「『レンブラントの帽子』を復刊した夏葉社の創業者です。このエッセイの中に、同書の装丁を担当した和田誠さんの考えが記されています」記憶を頼りに148ページを開く。ビンゴ。
和田さんの著作から引用する形で、こんなことが書かれている。
「書籍というものはたいがい読まれたあと書架に置かれ、いい本なら繰り返し手に取られ、もしかしたら孫の代まで受け継がれるものです」
「流通の段階で便利というだけで、こんなものを永久に刷り込んじゃって、書籍を汚くしていいものなのか」(和田誠『装丁物語』白水社」
「いいこと言うわねえ」頻りに頷く。和田さんの名前を知らないのかもしれない。だからこそリアクションに純な何かを感じる。「島田さんはこの本を読んでいたから『レンブラントの帽子』のバーコードを帯にだけ印刷したのです」「たしかにこの裏表紙、よく見たら上品でスッキリしてるわ。外国の風景写真みたい。絵とアルファベットの幅のバランスも素敵」帯が外された「レンブラントの帽子」を手に取り、さっきよりも大きな声で私に告げた。「これをください。こちらの島田さんの本も」
列が途切れない。交代要員も問い合わせで捕まり、休憩に行けない。軽い眩暈を覚えつつやっと事務所へ。雑誌担当が振り向く。とっくに昼食タイムのはずだ。「先輩」「ん?」「さっきはありがとうございます。それを言いたくて」「いや」「ああいう本もあるんですね。気をつけます」彼が悪いわけではない。誰も教えないのだ。「せっかく書店で働いてるんだから、現場のこと以外も学べたらいいよな」殊勝な表情に笑みが浮かぶ。「できれば」
書店員の仕事は、本を一冊でも多く売ることだけではない。本を作った人たちの真摯な熱を届ける使命も胸に刻んでおく。