ハードボイルド書店員日記㊶
「ひとつ訊いていい? 本とは関係ないんだけどさ」
サッカーの月刊誌を買った白髪の男性が言いづらそうに切り出す。いつもの青いポロシャツに黒縁の眼鏡。よくいらっしゃる小柄な紳士だ。「承ります」「7月のカレンダーってオリンピックをやるかどうかで変わるんだよね?」「そのようです」「どう変わるのか教えてもらってもいいかな?」「かしこまりました」
レジが混む時間帯ではない。椅子のあるサービスカウンターまで御足労いただき、PCで検索した記事を見せて説明した。
「つまり19日の月曜が平日になって、代わりに22日の木曜が祝日になるわけ?」「はい。そして10月の『スポーツの日』が開催式当日の7月23日に移動します。これで10月は祝日がゼロに」「昔は体育の日だったけど、いまはそう呼ぶんだね」気持ちはわかる。私も4月29日を「みどりの日」と呼び、若いバイトの子に「それ5月4日ですよ」と怪訝な顔をされたのだ。
「あとは8月11日の『山の日』が8月8日に移動します」「『山の日』? そんなのあったっけ?」「2016年に新設されました」「ふうん。なんでそれが移るの?」「閉会式に合わせたみたいです」「なるほどね」
男性は手持ちのバッグから黒革の手帳を出し、熱心にメモを取った。ウチのカバーが掛かった文庫本がちらりと目に入る。
「ありがとう、助かったよ。じゃあ雑誌の発売日も変わるわけだ」「恐らく前倒しになるかと」「その分荷物が増えるわけだ。おたくも大変だね」「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」「いやいや、別にあなた方の決めたことじゃないから」
こういう「理解あるちょっとした一言」に接客業従事者がどれほど救われているか。あまり知られていないが我々はロボットではない。お客さんと同じく感情を持った人間なのだ。
「オリンピック、やっぱりやるんだろうね」男性がゆっくりと椅子から立ち上がる。「だと思います」「子どもの運動会や修学旅行は中止なのにね」「はい」「まあでも、始まったら始まったでみんな楽しむと思うけどね。あなたも見るでしょ?」「そう、ですね」言葉を濁す。私の個人的見解が「店の総意」と見られては宜しくない。
「でもぼくが本当に楽しみなのは来年のサッカーワールドカップなんだ」「私も楽しみです」「ホント?」「バルセロナが好きなのでスペインを応援しています」直後に後悔した。日本人なのに日本を応援しないのか、と政治的意図を勘ぐられるかもしれない。だが男性は「わかるよ」と朗らかに金歯を見せてくれた。
「ぼくはずっとチェルシーのサポーターなんだ」だから常にその色のシャツなのか、と思った。「チャンピオンズリーグ、おめでとうございます」「ありがとう。どうしても普段見ている選手のいる国に目が向くよね」もう少しで握手を求めるところだった。
「アグエロも来るし、来シーズンのバルサは期待できそうじゃない?」「はい。あとは若いスペイン人が活躍してくれたら。アンス・ファティとか」「たしかにその方が来年の楽しみが増えるね。じゃあまた来るよ」「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」深々と頭を下げた。あの紳士が来年ワールドカップを元気に見られますように、という願いを込めて。