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ハードボイルド書店員日記【215】
「手軽に得られた情報は忘れるのも早いよ」
メンターは穏やかな笑みを浮かべ、カウンター脇の大きな窓から外の路地を眺めた。
11坪の町の本屋。かつて指導してくれた人がひとりで支えている。いまでも店長としか呼べない。心の中では永遠にメンターだ。
「私もそう思います。一方で、コスパやタイパを重視した『○分でわかる』とか『これ一冊でOK』みたいな本が求められている実情があるのもたしかかと」
「まあ入門書としては有意義なのかな。ぼくはあまり仕入れないけど」
「仕入れたら売り上げを伸ばせるとしても?」
「どうだろうねえ」
ゆったりとした足取りでレジを離れ、エッセイの単行本が並ぶ棚から一冊を抜き出す。島田潤一郎さんの書いた「電車のなかで本を読む」(青春出版社)だ。
「読んだ?」
「ええ」
「ああ、君は彼のファンだったね」
「彼の、というか、彼の経営する出版社が出す本の」
「夏葉社ね。けっこう置いてるよ」
「私の担当する棚でも何冊か」
なぜいまの話の流れでこの本を手に取ったのか? 何となくわかる。記憶を頼りに82ページを開いた。こんなことが書かれている。
必要なのは、繰り返し学ぶことでしょう。
そうした行為を怠り、新書一冊分の知識ですべてを知り得たと勘違いしたときに、本は良薬ではなく、悪薬にもなるのだと思います。
「まあそういうことかな」
相変わらずのんびりしている。店内だけは師走の慌ただしさと無縁であるかのように。忙しないエリアにこの本屋が存在し続けている理由を体現するように。
「すぐわかる的な本が必ずしもダメというわけではなく、お店に専門書や関連書を置いておくことが大事。そう受け取っています」
「書店員としては、それも正解のひとつだね」
「店長の考える正解は?」
そうだなあ。しばし天井を仰ぎ見る。
「ちょっとその本いい?」
レジ前の新刊コーナーに積まれた一冊を指差す。「スターバックスはなぜ値下げもCMもしないのにずっと強いブランドでいられるのか?」だ。出版社はディスカヴァー・トゥエンティワン。2007年に同社から出した本を改題、再編集して新装版としてデザインを一新したものらしい。
「最初の方にいいことが書かれてたんだ」
メンターはパラパラと本を開き、18ページを指差した。以下の文章が記されている。
では、お客様とはどんな会話をするのか? コーヒー豆についてである。スターバックスの従業員は扱っているコーヒーについて何から何まで知っている。ロースティング作業について、品種、ブレンド、単一産地のコーヒーの味の違いについて、そしてバーカウンターの中でつくったドリンクの誕生秘話について、すらすらと話すことができた。
ディスカヴァー・トゥエンティワン ジョン・ムーア著 花塚恵訳 18P
背筋に汗が浮かぶのを感じた。
「ご覧の通り、ここは狭いからね。何から何までとは断言できないけど、扱っている本についてほぼ知っているつもりだよ」
「スタバと町の本屋、書店チェーンでは商品の数が」
「無論同列では語れないよ。ただ扱うものに関する知識を増やすことはできる。お客さんに手軽な本を勧めることと引き換えに、我々の側もインスタントな棚作りに甘えることを正当化していないかな?」
「……ないとは言えません」
「もちろん読みたくない本を、仕事のためだからと我慢して何冊も読む必要はないよ。読書は誰かに強要されておこなう苦行じゃないからね。ぼくが言いたいのはそんなことじゃなく」
「手軽に得られた売り上げは失うのも早い」
口元で金歯がきらめいた。
書店を守りたい。もっと数字を伸ばしたい。その熱意が、却ってお店の持ち味及び愛される理由を損なう結果に繋がることもあり得る。学ばせてもらった。
売れなければ生き残れないが、売れれば何でもいいわけじゃない。スターバックスがコーヒーなら書店は本。置いている書籍について何から何まで答えられる書店員など存在しない。現実的でもない。だが理想を目指すことはできる。少しでも近づけるようにやっていこう。
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