ハードボイルド書店員日記㊻
「芥川賞の本、ある?」
レジに来たのは年配の男性客だ。黄色いポロシャツと襟足の長い白髪が焼けた肌にマッチしている。発表の翌日は必ずこういうお問い合わせが来る。とはいえ、芥川賞は直木賞とは異なり、受賞後に本になることが通例である。今回みたいに事前に単行本化しているのは珍しいケースだ。
「申し訳ございません。ただいま在庫を切らしております」「えー、せっかく来たのに」「申し訳ございません」「売れるのはわかってるんだから、事前にたくさん入れとけよ」露骨に舌打ちして顔をしかめる。「袋代、6円いただきます」と告げたら同じ行動に出た人が先週いた。やはり恰幅のいい年配の男性だった。
「受賞作は来月10日ごろに出る『文藝春秋』に全文掲載されますが」「いま読みたいんだよ」「申し訳ございません」下げた頭の片隅でひとつ閃いた。
「候補作の千葉雅也『オーバーヒート』なら、いま在庫がございます」「候補作? つまり受賞してないんでしょ。いいいい。獲らなきゃ意味無いんだ」もし「この人は千葉雅也の書いたものを読んだことがあるか?」という賭けがあったら、私は来世の分まで含めた全財産を迷わず「ない」にベットする。
「ところで受賞作は何ていう本?」知らないで来たのか。「石沢麻依さんの『貝に続く場所にて』と」「カイ? 食べる貝?」「そうです」「ふうん。わかった」立ち去ろうとする存外薄い頭頂部に向けて「もう一作ございます」と呼びかける。「ふたつもあるのかよ」「ございます。李琴峰さんの『彼岸花が咲く島』です」「へえ。面白いの?」
男性の眠そうな顔からは何の感情も読み取れない。本当に知りたいわけではなく一種の脊髄反射だろう。「鷹木って最近どうなの?」と新日本プロレスの会場で友達と話す大学生と同じだ。東京ドームのメインで闘う王者に向かって「どうなの?」は的外れも甚だしい。
いずれも文芸誌に掲載されていて本にもなっている。だが私は読んでいない。職務怠慢と謗られれば返す言葉もない。未読の旨を正直に伝えようと思った。だがそれでは何も答えていないのに等しい。やや間を置いた後、私はマスクの下に意識して最大限の笑みを浮かべた。
「私は『オーバーヒート』が獲ると信じていました。二年前に候補になった『デッドライン』が面白かったからです。無知な分野についてたくさん教えていただき、探究心を喚起してもらえました。『環世界』という概念はご存知ですか?」
男性はそっぽを向き、左の小指で耳の穴をほじった。「その人、候補になるのは二回目?」「さようでございます」「で、またダメだったの?」「はい」「そんなの買わせるなよ~。受賞した本の方が面白いに決まってるだろ? くだらない言い訳で職務怠慢を誤魔化すな」
数分後、男性は「しっかり仕事しろよ」と吐き捨て、何も買わずに帰った。己の狭い「環世界」を広げるチャンスをみすみす逃したと気づかずに。
有名な賞を獲った作家の本は、それまでの閑古鳥が嘘みたいに売れ始める。悪いことではない。きっかけは必要だし、誰でも最初は「にわか」なのだ。だが賞の有無などで作品の価値は変わらない。何より「面白いかどうか」の判断を誰かに委ねることほど面白くないこともない。
「受賞作より売ってやる」文芸書の棚整理をする際、目に入った表紙に向かってつぶやいた。今晩は野球を見ずにPOPを創ろう。いつになく熱くなっている自分に気づいて口元を緩めた。あのじいさんのおかげで俺の「環世界」の輪は確実に広がる。いつかアイツに「面白かった。買って良かったよ」と言わせてみせる。