ハードボイルド書店員日記【161】
「わからない? どうにかならないの?」
いつの間にか冬へすり替わった平日。児童書のラッピングが増えてきた。ツリーを飾ったフェア台で、クリスマスソングを集めたCDがエンドレスで再生中。尤も仕入れ室では、すでにかるたや百人一首、ふくわらいの詰まったダンボールが山積みされているのだが。
棚の荷物を出し終えた。レジに入るまでまだ少し時間がある。
雨予報が出ているせいか、午後になって明らかに客足が鈍った。だからといって気を抜けるほど甘くない。レジの端で社員の男性が欧米人らしき数名に片言の英語を話している。翻訳アプリなども使っているがイマイチ伝わっていない。一方、お問い合わせカウンターでは文庫担当の女性が「申し訳ございません」と頭を下げていた。机を挟んだ相手方は小柄な白髪の紳士。骨張った首筋を掻き、入れ歯に挟まった野菜の切れ端を舌先で外す音を頻りに立てている。
社員はひとりで対処するだろう。してくれ。文庫担当に「どうしたの?」と声を掛けた。「あ、先輩。お問い合わせなんですけど、全然わからなくて」従業員用のメモ用紙を渡される。金釘流の油性ボールペンでこう記されていた。
「富士には月見草がよく似合う」
「書いたのは私です。汚くてすいません。小説の一節らしいんですけど、いまPCがネットに繋がらない状態で検索できなくて」首を曲げて事務所の様子を窺う。店長が焦った様子で電話をかけていた。ウチの店舗だけか、あるいは社内全体を網羅するネットワークのトラブルか。いずれにしてもすぐには復旧しない可能性が高い。
「いちいちパソコンで調べなきゃわからないの? だらしないなあ」老紳士は脚を広げて椅子に座り、右の人差し指で机をトントン叩いている。「本に詳しいプロの従業員はいないのかねえ」「太宰」「えっ?」「太宰治の文章です」「本当に?」こんな有名なものを誰がどう間違うのか。「少々お待ちくださいませ」大股で棚へ向かった。
「お待たせ致しました」新潮文庫「走れメロス」を開く。「こちらの『富嶽百景』です」件の一文は69ページに記されていた。「ありがとうございます!!」文庫担当の方が喜んでいる。替わるからと伝え、品出しに行かせた。老紳士は眉間に皺を寄せ、黙って唇を湿らせている。
「……太宰かあ。違う作家だと思ったんだが」「もしや井伏鱒二とか」図星のようだ。露骨に舌を鳴らし、ぶつぶつつぶやいている。「さよならだけが人生だ」と混同したのだろう。「じゃあついでに。太宰の小説で、太宰治という人が語り手とは別に出てくる作品が」「『ダス・ゲマイネ』ですね。同じ本に収録されています」41ページを示して手渡した。そこにはこんなことが書かれている。
「たのみます、といって頭をさげる、それが芸術家の作品のような気さえしているのだ」
「僕は趣味で小説を書いているのではない。結構な身分でいて、道楽で書くくらいなら、僕ははじめから何も書きはせん」
「これがどうしたの?」「いちばん好きな箇所です」「だって君は書店員だろ?」「ええ」「作家になりたいの?」「ちょっと一言では」「ふうん」金歯が一瞬顔を覗かせた。「それはともかく、機械に頼らずに見つけてきたのはさすがだ」「ありがとうございます」「小説を書きたいなら、書くための時間を確保し、なおかつ仕事も一生懸命やることだね。どちらかを片手間でやろうとしたら両方うまくいかない。仕事と創作は、人生を充実させるために欠かせぬ車の両輪と捉えなくちゃいけない」知った風なことを。だが頭を下げるのも芸術のうちだ。
「じゃあこの本、いただいていくよ」勿体ぶるように立ち上がった。「一応ぼくもね、小説家なんだよ。自費出版で何冊か出してる。まさに太宰が嫌うようなタイプだけど」それを言いたかったのか。
書くことは私の生業ではない。しかし趣味とも呼べない。ましてや道楽などとは程遠い。自分で自分を追い込み、どうにか毎週乗り切っている。本は出したい。子どもの頃から切実に願っている。だが書く目的ではない。件の老紳士とはその辺りに関する考え方がおそらく異なる。私は己を小説家とは呼ばない。昔は自称していた。いまは違う。俺は書店員だ。あくまでも「小説を書く非正規書店員」としていつか著書を世へ送り出す。書きたいことを好きな長さで書く。そのうえで万が一売れるのならご勝手だ。
あえて言おう。富士には月見草、書店員には作家志望がよく似合う。